木曾

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木曾」(2014/12/12 (金) 13:06:06) の最新版変更点

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#image(No041.jpg) #contents() ---- *CV ---- 佐倉綾音 ---- *Illustrator ---- 絵師 ---- *史実情報 ---- 5500トン型軽巡洋艦、球磨型5番艦である「木曾」。主に北方で活躍し、1942年のドーリットル空襲の際にはその機動部隊の追撃に出るなど活動範囲が非常に広い。 #ref(Kiso.jpg) 1921年に竣工され、本艦は竣工時に艦橋下に格納庫と艦橋前に滑走台を設置、陸上機を収容できるようにした。 そのため他の球磨型より艦橋構造物が大型化し、以降の「長良型」「川内型」も同様の理由で艦橋構造物が大型化している。 しかし滑走台の実用性は乏しく後に撤去、以降陸上機は搭載されなくなった。 他の5500トン型軽巡洋艦は近代化改装時にカタパルトを設置、水上機を1機搭載したが木曾は大井、北上と共にカタパルトを設置せず、水上機は搭載されなかった。 「[[木曾]]」は1,2番煙突上部にそろばん型の雨水除去装置を設置、このため他艦と容易に識別できる。 #ref(Kiso2.jpg) なお他の5500トン型では「[[球磨]]」がそろばん型のものを煙突3本全てに設置、他の艦との識別点になっている([[球磨]]の項参照) 初陣はシベリア出兵、続いて旅順を拠点とし関東州から青島にかけての沿岸の哨戒にあたった。 1939年4月17日、アメリカ重巡洋艦「アストリア」が日本の駐米大使斎藤博の遺骨を載せて横須賀に到着した際21発の礼砲を発射した。 1941年11月10日、「[[木曾]]」は第5艦隊の第21戦隊に編入された。 太平洋戦争が始まった12月8日、真珠湾攻撃時は千島列島で活動しており、荒天による損傷のため同年末には横須賀に戻った。 1942年1月から4月まで「[[木曾]]」は同型艦の「[[多摩]]」とともに北方水域で活動。 1942年4月18日、アメリカ軍によるドーリットル空襲が行われると、「[[木曾]]」はそのアメリカ機動部隊の追跡を開始。 翌日、「[[木曾]]」は爆撃を受けて損傷し漂流中であった監視艇、第二十一南進丸を発見し、乗員の救助後砲撃により処分、結局機動部隊は見つからなかった。 1942年5月、ミッドウェー沖海戦に向けての前哨戦としてアリューシャン列島攻略作戦に参加。その後はキスカ島撤退作戦まで北方で活動を続ける。 キスカ島が陥落した後は南方へ向かうがそれが運の尽き、1944年11月13日、マニラ湾に停泊中に米軍機の攻撃を受け沈没。 なお、沈没と言っても着底状態であり、原型を留めないほど大破しながら上甲板が海上に出ていたため中々沈没認定が出ず、しばらくは軍艦と呼べない鉄屑の山の上で、毎日軍艦旗の掲揚と降納の儀式をしていたという。また、沈没認定後もしばらく防空砲台として使用された。 1945年3月20日、除籍。船体は終戦時にも残っており、1955年から1956年にかけて現地にて日本のスクラップ業者が浮揚解体。 余談だが、大井・北上と同じく、重雷装艦への改装計画も存在したとのこと。 もしそれが実現していたら、末期は回天運用母艦として行動していたのかもしれない。 また、2004年に三菱重工業下関造船所にて竣工、2005年に就航した太平洋フェリー「きそ」はフェリー・オブ・ザ・イヤーを2005年から2010年まで6年連続で受賞している。 木曽との直接的な関係は不明だが、両船とも三菱造船(1950年からは三菱重工業)にて起工された。ちなみに「きたかみ」も同じく太平洋フェリーにて就航している。 |>|>|艦歴| |発注|>|大正6年度計画| |起工|1919年6月10日|三菱造船長崎造船所にて建造| |進水|1920年12月14日|| |就役|1921年5月4日|球磨型軽巡洋艦5番艦「木曾」と命名| ||1922年8月31日|シベリア出兵に参加| ||1937年7月29日|日中戦争に参加、沿岸警備を務める| ||1941年11月10日|第五艦隊第21戦隊に編入| ||1941年12月8日|千島列島で活動中、荒天による損傷で同年末に横須賀へ帰投| ||1942年1月|4月まで北方水域で活動| ||1942年4月18日|ドーリットル初空襲を受け、アメリカ機動部隊の追跡へ向かう| ||1942年4月19日|監視艇第二十一南進丸を発見、雷撃処分| ||1942年5月28日|アリューシャン作戦・キスカ攻略に参加| ||1943年7月10日|キスカ島撤退作戦に参加| |沈没|1944年10月25日|マニラ湾停泊中に米軍機の爆撃を受け沈没| |除籍|1945年3月20日|| |解体|1955年~1956年|| ---- *台詞一覧 ---- |状況 |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|木曾だ、お前に最高の勝利を与えてやる。| | |秘書クリック会話①|なんだ?作戦か?|| |秘書クリック会話②|不安なのか?|| |秘書クリック会話③|そうこなくっちゃな、スキンシップも大事だな|| |戦績表示時|通信だ。よく読んでおけ|| |編成選択時|俺に勝負を挑む馬鹿はどいつだ?|| |装備時①|水上機?要らないねぇ、そんなものは|竣工時には搭載していたが後に撤去。近代化改装時もカタパルトを設置しなかった&br()ただ、改になると何故か零式水上偵察機がついてくる。| |装備時②|ありだな|| |装備時③|いいねえ、こういうの|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |ドック入り|仕方ねえ、出てやるか|| |ドック入り(重傷)|ありだな|| |建造時|新造艦が出来たようだ|| |艦隊帰投時|艦隊が帰って来たな|| |出撃時|本当の戦闘ってやつを教えてやるよ|| |戦闘開始時|弱すぎる!|| |攻撃時|いいぞ|| |夜戦開始時|それで逃げたつもりなのかい?|| |夜戦攻撃時|お前らの指揮官は無能だな!|| |MVP時|当然の結果だ、別に騒ぐことも無い|| |被弾小破①|くっ…これくらい!!|| |被弾小破②|チッ…やるじゃないか…!|| |被弾カットイン|ちょっとばかし涼しくなったぜ|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):この木曾を沈めたこと…誇るがいい|| ---- *コメント ---- 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=コメント/木曽)
#image(No041.jpg) #contents() ---- *CV ---- 佐倉綾音 ---- *Illustrator ---- 絵師 ---- *史実情報 ---- 5500トン型軽巡洋艦、球磨型5番艦である「木曾」。主に北方で活躍し、1942年のドーリットル空襲の際にはその機動部隊の追撃に出るなど活動範囲が非常に広い。 #ref(Kiso.jpg) 1921年に竣工され、本艦は竣工時に艦橋下に格納庫と艦橋前に滑走台を設置、陸上機を収容できるようにした。 そのため他の球磨型より艦橋構造物が大型化し、以降の「長良型」「川内型」も同様の理由で艦橋構造物が大型化している。 しかし滑走台の実用性は乏しく後に撤去、以降陸上機は搭載されなくなった。 他の5500トン型軽巡洋艦は近代化改装時にカタパルトを設置、水上機を1機搭載したが木曾は大井、北上と共にカタパルトを設置せず、水上機は搭載されなかった。 「[[木曾]]」は1,2番煙突上部にそろばん型の雨水除去装置を設置、このため他艦と容易に識別できる。 #ref(Kiso2.jpg) なお他の5500トン型では「[[球磨]]」がそろばん型のものを煙突3本全てに設置、他の艦との識別点になっている([[球磨]]の項参照) 初陣はシベリア出兵、続いて旅順を拠点とし関東州から青島にかけての沿岸の哨戒にあたった。 1939年4月17日、アメリカ重巡洋艦「アストリア」が日本の駐米大使斎藤博の遺骨を載せて横須賀に到着した際21発の礼砲を発射した。 1941年11月10日、「[[木曾]]」は第5艦隊の第21戦隊に編入された。 太平洋戦争が始まった12月8日、真珠湾攻撃時は千島列島で活動しており、荒天による損傷のため同年末には横須賀に戻った。 1942年1月から4月まで「[[木曾]]」は同型艦の「[[多摩]]」とともに北方水域で活動。 1942年4月18日、アメリカ軍によるドーリットル空襲が行われると、「[[木曾]]」はそのアメリカ機動部隊の追跡を開始。 翌日、「[[木曾]]」は爆撃を受けて損傷し漂流中であった監視艇、第二十一南進丸を発見し、乗員の救助後砲撃により処分、結局機動部隊は見つからなかった。 1942年5月、ミッドウェー沖海戦に向けての前哨戦としてアリューシャン列島攻略作戦に参加。その後はキスカ島撤退作戦まで北方で活動を続ける。 キスカ島が陥落した後は南方へ向かうがそれが運の尽き、1944年11月13日、マニラ湾に停泊中に米軍機の攻撃を受け沈没。 なお、沈没と言っても着底状態であり、原型を留めないほど大破しながら上甲板が海上に出ていたため中々沈没認定が出ず、しばらくは軍艦と呼べない鉄屑の山の上で、毎日軍艦旗の掲揚と降納の儀式をしていたという。また、沈没認定後もしばらく防空砲台として使用された。 1945年3月20日、除籍。船体は終戦時にも残っており、1955年から1956年にかけて現地にて日本のスクラップ業者が浮揚解体。 余談だが、大井・北上と同じく、重雷装艦への改装計画も存在したとのこと。 もしそれが実現していたら、末期は回天運用母艦として行動していたのかもしれない。 また、2004年に三菱重工業下関造船所にて竣工、2005年に就航した太平洋フェリー「きそ」はフェリー・オブ・ザ・イヤーを2005年から2010年まで6年連続で受賞している。 木曽との直接的な関係は不明だが、両船とも三菱造船(1950年からは三菱重工業)にて起工された。ちなみに「きたかみ」も同じく太平洋フェリーにて就航している。 &table_color(table2,#ddd){} |>|>|~艦歴| |発注|>|大正6年度計画| |起工|1919年6月10日|三菱造船長崎造船所にて建造| |進水|1920年12月14日|| |就役|1921年5月4日|球磨型軽巡洋艦5番艦「木曾」と命名| ||1922年8月31日|シベリア出兵に参加| ||1937年7月29日|日中戦争に参加、沿岸警備を務める| ||1941年11月10日|第五艦隊第21戦隊に編入| ||1941年12月8日|千島列島で活動中、荒天による損傷で同年末に横須賀へ帰投| ||1942年1月|4月まで北方水域で活動| ||1942年4月18日|ドーリットル初空襲を受け、アメリカ機動部隊の追跡へ向かう| ||1942年4月19日|監視艇第二十一南進丸を発見、雷撃処分| ||1942年5月28日|アリューシャン作戦・キスカ攻略に参加| ||1943年7月10日|キスカ島撤退作戦に参加| |沈没|1944年10月25日|マニラ湾停泊中に米軍機の爆撃を受け沈没| |除籍|1945年3月20日|| |解体|1955年~1956年|| ---- *台詞一覧 ---- &table_color(table1,#ddd){} |~状況 |~台詞 |~関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|木曾だ、お前に最高の勝利を与えてやる。| | |秘書クリック会話①|なんだ?作戦か?|| |秘書クリック会話②|不安なのか?|| |秘書クリック会話③|そうこなくっちゃな、スキンシップも大事だな|| |戦績表示時|通信だ。よく読んでおけ|| |編成選択時|俺に勝負を挑む馬鹿はどいつだ?|| |装備時①|水上機?要らないねぇ、そんなものは|竣工時には搭載していたが後に撤去。近代化改装時もカタパルトを設置しなかった&br()ただ、改になると何故か零式水上偵察機がついてくる。| |装備時②|ありだな|| |装備時③|いいねえ、こういうの|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |ドック入り|仕方ねえ、出てやるか|| |ドック入り(重傷)|ありだな|| |建造時|新造艦が出来たようだ|| |艦隊帰投時|艦隊が帰って来たな|| |出撃時|本当の戦闘ってやつを教えてやるよ|| |戦闘開始時|弱すぎる!|| |攻撃時|いいぞ|| |夜戦開始時|それで逃げたつもりなのかい?|| |夜戦攻撃時|お前らの指揮官は無能だな!|| |MVP時|当然の結果だ、別に騒ぐことも無い|| |被弾小破①|くっ…これくらい!!|| |被弾小破②|チッ…やるじゃないか…!|| |被弾カットイン|ちょっとばかし涼しくなったぜ|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):この木曾を沈めたこと…誇るがいい|| ---- *同型艦 [[球磨]] ― [[多摩]] ― [[北上]]([[北上改二]]) ― [[大井]]([[大井改二]])― &bold(){木曾}([[木曾改二]]) ---- *コメント ---- 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=木曾/コメント)

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