球磨

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球磨」(2014/12/12 (金) 12:59:28) の最新版変更点

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#image(No039.jpg) #contents() ---- *CV ---- 佐倉綾音 ---- *Illustrator ---- 絵師 ---- *史実情報 ---- #ref(Kuma.jpg) 第一次世界大戦で、日本が初めて建造した軽巡洋艦である「天龍型」は、当初6隻の建造予定があったものの、「[[天龍]]」と「[[龍田]]」の2隻に終わった。 その理由は米国海軍で、より強力な巡洋艦の建造が行われていることが判明し、「より大型で、強い艦艇」が望まれたからで、天龍型クラスの小型巡洋艦では力不足と判断されたためである。 日本は諸外国に対抗すべく、新たに5500トン軽巡洋艦の建造にとりかかる。その計14隻の内訳は「球磨型」5隻「長良型」6隻、そして「川内型」3隻であった。 こうして計画された5500トン型軽巡洋艦、計14隻のうち最初に建造された、球磨型軽巡洋艦1番艦「[[球磨]]」。 1918年8月29日、球磨型1番艦として佐世保海軍工廠で起工し、1919年7月14日進水、1920年8月31日に竣工した。 主砲には14センチ単装砲を7門装備、3番・4番の砲が両舷に分かれて設置されている為、片舷への同時砲撃は6門。 1~4番までの4門が前部に5~7番までの3門が後部に配置されている。 長門型戦艦でさえ竣工時は80,000馬力だった中、完成当初、なんと&bold(){90,000馬力}という大出力を活かして36ノットという高速を誇り、 14センチ砲を7門・53センチ魚雷連装発射を4基備えた当時としては強武装を誇った。 ただし、日本近海で敵艦隊(主にアメリカ艦隊)を迎え撃つ、いわゆる「漸減作戦」に基づいた艦であるために航続力は低く、14ktで5000浬程度の航行能力しか無い。 高速・重武装なれど足が短い欠点は他の5500t型軽巡にも共通しており、設計当時の決戦思想と実際の決戦が大きく異なった事によるギャップが戦時中に生まれたのもまた確かであった。 しかし諸外国、特に仮想敵国であるアメリカの軽巡洋艦の発展は目覚ましく、建造からかなりの年数が経過していたこともあり、太平洋戦争では旧式艦となっていた。 開戦に際し改装も行ったが、結局は後方配備となって輸送任務をこなしている。 「[[球磨]]」の初陣はシベリア出兵で、日華事変にも参加。太平洋戦争では「[[足柄]]」と共にフィリピン攻略作戦に従事、その後は南洋方面で輸送任務に従事した。 「[[球磨]]」は戦歴のほとんどを船団護衛や輸送任務で彩っており、大規模な海戦に参加したことは無かった。 著名なのは、1942年4月9日未明に「[[球磨]]」と水雷艇「雉」がフィリピンのタノン海峡南側出口でアメリカの魚雷艇PT-34およびPT-41と交戦したことぐらいである。 この時PT-34の発射した魚雷が「[[球磨]]」に命中したが幸運にも爆発せず、引き上げている。 この他には1943年3月に「[[名取]]」を雷撃した米潜「SS-113トートグ」を急設網艦((泊地への敵潜水艦の侵入を防ぐ防潜網を敷設する艦艇))「蒼鷹」とともに攻撃しているのが目立った戦闘である。 ちなみに「[[球磨]]」と「蒼鷹」は「トートグ」を討ち漏らし、「トートグ」は終戦まで生き残っていたりする。 1944年1月11日午後11時57分、マラッカ海峡付近で英T級潜水艦タリー・ホーの魚雷2本を受け沈没。 同年3月10日、除籍。 ちなみに「球磨」最後の艦長は、日露戦争の第二次旅順港閉塞戦で戦死した杉野孫七兵曹長((同作戦の指揮官・広瀬武夫中佐付きの下士官で、閉塞船撃沈時に戦死。広瀬中佐とともに日本海軍最初の軍神となった人物。))の長男で、「[[長門]]」最後の艦長ともなった杉野修一大佐。 &table_color(table2,#ddd){} |>|>|~艦歴| |発注|>|大正6年度計画| |起工|1918年8月29日|佐世保工廠にて建造| |進水|1919年7月14日|| |就役|1920年8月31日|5500トン型軽巡洋艦 球磨型1番艦「球磨」と命名| ||1921年|シベリア出兵に参加 沿岸の哨戒活動に従事| ||1937年|日中戦争に参加| ||1941年1月10日|フィリピン攻略作戦に参加| ||1941年9月15日|南方方面で輸送活動に従事| ||1942年4月9日|水雷艇「雉」と共に米魚雷艇と交戦、被弾するも不発弾であった| |沈没|1944年1月11日|マラッカ海峡付近で英潜水艦により魚雷2本を受け沈没| |除籍|1944年3月10日|| ---- *台詞一覧 ---- &table_color(table1,#ddd){} |~状況 |~台詞 |~関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|クマー。よろしくだクマ。|「球磨」の名は熊本県を流れる「球磨川」からとられた、県名といい熊づくしである| |秘書クリック会話①|呼んだクマ?|| |秘書クリック会話②|クマ?|| |秘書クリック会話③|なでなでしないで欲しいクマー、ぬいぐるみじゃないクマー|COLOR(white):モルスァ| |戦績表示時|お手紙が届いてるクマ|| |編成選択時|クマ!出撃するクマ!|| |装備時①|ふっふっふっ~、強くなったクマ|| |装備時②|フフフーン、良い感じだクマぁ|| |装備時③|ク↘マ↗|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |ドック入り|ゆとりの行動をするクマ|| |ドック入り(重傷)|もう少しで死ぬところだったクマ~!|| |建造時|新造艦ができたクマー|| |艦隊帰投時|作戦終了、報告見るクマ?|| |出撃時|クマを選ぶとはいい選択クマ|| |戦闘開始時|なめるなクマー|ペロペロ| |攻撃時|左舷に敵艦だクマ|| |夜戦開始時|追撃戦にうつるクマ|| |夜戦攻撃時|魚雷発射クマー|| |MVP時|意外に優秀なクマちゃんってよく言われるクマ|ゲーム中の球磨は近代化改修の能力上限が高く、軽巡でありながら重巡である古鷹型に迫る強さになる| |被弾小破①|うぉおぉ!|| |被弾小破②|被弾クマー!|| |被弾カットイン|球磨をこんな姿にするなんて、屈辱だクマ…|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):このクマをもってしても、ここまでクマ…|| ---- *同型艦 &bold(){球磨} ― [[多摩]] ― [[大井]]([[大井改二]]) ― [[北上]]([[北上改二]]) ― [[木曾]]([[木曾改二]]) ---- *コメント ---- 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=球磨/コメント)
#image(No039.jpg) #contents() ---- *CV ---- 佐倉綾音 ---- *Illustrator ---- 絵師 ---- *史実情報 ---- #ref(Kuma.jpg) 第一次世界大戦で、日本が初めて建造した軽巡洋艦である「天龍型」は、当初6隻の建造予定があったものの、「[[天龍]]」と「[[龍田]]」の2隻に終わった。 その理由は米国海軍で、より強力な巡洋艦の建造が行われていることが判明し、「より大型で、強い艦艇」が望まれたからで、天龍型クラスの小型巡洋艦では力不足と判断されたためである。 日本は諸外国に対抗すべく、新たに5500トン軽巡洋艦の建造にとりかかる。その計14隻の内訳は「球磨型」5隻「長良型」6隻、そして「川内型」3隻であった。 こうして計画された5500トン型軽巡洋艦、計14隻のうち最初に建造された、球磨型軽巡洋艦1番艦「[[球磨]]」。 1918年8月29日、球磨型1番艦として佐世保海軍工廠で起工し、1919年7月14日進水、1920年8月31日に竣工した。 主砲には14センチ単装砲を7門装備、3番・4番の砲が両舷に分かれて設置されている為、片舷への同時砲撃は6門。 1~4番までの4門が前部に5~7番までの3門が後部に配置されている。 長門型戦艦でさえ竣工時は80,000馬力だった中、完成当初、なんと&bold(){90,000馬力}という大出力を活かして36ノットという高速を誇り、 14センチ砲を7門・53センチ魚雷連装発射を4基備えた当時としては強武装を誇った。 ただし、日本近海で敵艦隊(主にアメリカ艦隊)を迎え撃つ、いわゆる「漸減作戦」に基づいた艦であるために航続力は低く、14ktで5000浬程度の航行能力しか無い。 高速・重武装なれど足が短い欠点は他の5500t型軽巡にも共通しており、設計当時の決戦思想と実際の決戦が大きく異なった事によるギャップが戦時中に生まれたのもまた確かであった。 しかし諸外国、特に仮想敵国であるアメリカの軽巡洋艦の発展は目覚ましく、建造からかなりの年数が経過していたこともあり、太平洋戦争では旧式艦となっていた。 開戦に際し改装も行ったが、結局は後方配備となって輸送任務をこなしている。 「[[球磨]]」の初陣はシベリア出兵で、日華事変にも参加。太平洋戦争では「[[足柄]]」と共にフィリピン攻略作戦に従事、その後は南洋方面で輸送任務に従事した。 「[[球磨]]」は戦歴のほとんどを船団護衛や輸送任務で彩っており、大規模な海戦に参加したことは無かった。 著名なのは、1942年4月9日未明に「[[球磨]]」と水雷艇「雉」がフィリピンのタノン海峡南側出口でアメリカの魚雷艇PT-34およびPT-41と交戦したことぐらいである。 この時PT-34の発射した魚雷が「[[球磨]]」に命中したが幸運にも爆発せず、引き上げている。 この他には1943年3月に「[[名取]]」を雷撃した米潜「SS-113トートグ」を急設網艦((泊地への敵潜水艦の侵入を防ぐ防潜網を敷設する艦艇))「蒼鷹」とともに攻撃しているのが目立った戦闘である。 ちなみに「[[球磨]]」と「蒼鷹」は「トートグ」を討ち漏らし、「トートグ」は終戦まで生き残っていたりする。 1944年1月11日午後11時57分、マラッカ海峡付近で英T級潜水艦タリー・ホーの魚雷2本を受け沈没。 同年3月10日、除籍。 ちなみに「球磨」最後の艦長は、日露戦争の第二次旅順港閉塞戦で戦死した杉野孫七兵曹長((同作戦の指揮官・広瀬武夫中佐付きの下士官で、閉塞船撃沈時に戦死。広瀬中佐とともに日本海軍最初の軍神となった人物。))の長男で、「[[長門]]」最後の艦長ともなった杉野修一大佐。 &table_color(table2,#ddd){} |>|>|~艦歴| |発注|>|大正6年度計画| |起工|1918年8月29日|佐世保工廠にて建造| |進水|1919年7月14日|| |就役|1920年8月31日|5500トン型軽巡洋艦 球磨型1番艦「球磨」と命名| ||1921年|シベリア出兵に参加 沿岸の哨戒活動に従事| ||1937年|日中戦争に参加| ||1941年1月10日|フィリピン攻略作戦に参加| ||1941年9月15日|南方方面で輸送活動に従事| ||1942年4月9日|水雷艇「雉」と共に米魚雷艇と交戦、被弾するも不発弾であった| |沈没|1944年1月11日|マラッカ海峡付近で英潜水艦により魚雷2本を受け沈没| |除籍|1944年3月10日|| ---- *台詞一覧 ---- &table_color(table1,#ddd){} |~状況 |~台詞 |~関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|クマー。よろしくだクマ。|「球磨」の名は熊本県を流れる「球磨川」からとられた、県名といい熊づくしである| |秘書クリック会話①|呼んだクマ?|| |秘書クリック会話②|クマ?|| |秘書クリック会話③|なでなでしないで欲しいクマー、ぬいぐるみじゃないクマー|COLOR(white):モルスァ| |戦績表示時|お手紙が届いてるクマ|| |編成選択時|クマ!出撃するクマ!|| |装備時①|ふっふっふっ~、強くなったクマ|| |装備時②|フフフーン、良い感じだクマぁ|| |装備時③|ク↘マ↗|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |ドック入り|ゆとりの行動をするクマ|| |ドック入り(重傷)|もう少しで死ぬところだったクマ~!|| |建造時|新造艦ができたクマー|| |艦隊帰投時|作戦終了、報告見るクマ?|| |出撃時|クマを選ぶとはいい選択クマ|| |戦闘開始時|なめるなクマー|ペロペロ| |攻撃時|左舷に敵艦だクマ|| |夜戦開始時|追撃戦にうつるクマ|| |夜戦攻撃時|魚雷発射クマー|| |MVP時|意外に優秀なクマちゃんってよく言われるクマ|ゲーム中の球磨は近代化改修の能力上限が高く、軽巡でありながら重巡である古鷹型に迫る強さになる| |被弾小破①|うぉおぉ!|| |被弾小破②|被弾クマー!|| |被弾カットイン|球磨をこんな姿にするなんて、屈辱だクマ…|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):このクマをもってしても、ここまでクマ…|| ---- *同型艦 &bold(){球磨} ― [[多摩]] ― [[北上]]([[北上改二]]) ― [[大井]]([[大井改二]]) ― [[木曾]]([[木曾改二]]) ---- *コメント ---- 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=球磨/コメント)

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