山城

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山城」(2014/12/11 (木) 15:07:02) の最新版変更点

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#image(No027.jpg) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV ---- 藤田咲 ---- *史実情報 ---- #image(Japanese_battleship_Yamashiro.jpg)  日本初の自国設計・自国建造の純国産超ド級戦艦である扶桑型戦艦の2番艦として横須賀海軍工廠で建造された。  35.6cm連装砲塔6基12門の重武装、当時としては高速の22.5ノットの扶桑型戦艦は、世界最大・最強の戦艦となる……はずであった。  だが、山城は就役する前から時代遅れの戦艦、というレッテルを貼られることになる。  事の発端は就役前年に行われたジュットランド沖海戦。  第一次世界大戦最大にして唯一の主力艦隊同士による決戦となったこの海戦で、日本戦艦のお手本となったイギリスの巡洋戦艦部隊が、ドイツの重装甲戦艦と激突。  海戦はイギリス巡洋戦艦部隊が数発の直撃弾で次々と撃沈していく一方、ドイツの重装甲戦艦は数十発も被弾しても沈まず、イギリス型巡洋戦艦の欠点と装甲防御の重要性が明らかとなった。  35.6cm連装砲塔6基を艦体に万遍なく配置した扶桑型は、装甲防御に致命的な欠点を有しており、自慢の攻撃力もバラバラに配置された主砲の射撃指揮が難しく、一斉射撃を行うと爆風と衝撃で艦の上部構造物に傷害を与えるという有様だった。  日本海軍の大きな期待を背負って建造された扶桑型戦艦であったが、こうしたあまりにも大きな欠点を持っていたため、4隻建造予定だったのを2番艦の&bold(){山城}でキャンセルし、残りの2隻は再設計の上で伊勢型戦艦として建造されることになる。  さて、このような欠陥を抱えていたとしても、作ってしまった以上は使うしかない。  欠点が見つかれば改装を行い、また欠点があるので改装を行い、ということを繰り返した結果、艦隊行動の期間よりドックで改装を行っていた期間のほうが長くなり、“艦隊にいる方が珍しい艦”と揶揄された。  特に昭和5年からは、船体、主砲、主機、艦橋、兵装、煙突にいたるまで大規模な改装を5年かけて行ったが、根本的な性能不足はいかんともしがたかった。  このため太平洋戦争でも内地で練習艦として多くの時間を過ごし、ミッドウェー海戦では第一艦隊第二戦隊として[[伊勢]]、[[日向]]、[[扶桑]] と共に出撃するも、戦争の主役は航空艦隊に奪われ、低防御・鈍足の旧型戦艦部隊に活躍の機会は巡って来なかった。  ミッドウェー海戦後の空母戦力の不足を補うため、伊勢型と共に航空戦艦改装を検討されるも、結局改造されることはなく内地での待機・練習艦任務を続けることになる。  砲術学校練習艦とされた彼女は、乗り組む士官も肺病を患った後の療養中のような人物が多く、ほとんど予備艦のように扱われた。  乗員たちは戦局が日々悪化していくのを内地で指をくわえて見ているしかなく、なぜ出してもらえないのかと嘆き、艦の雰囲気は陰々滅々としていたという。  艦齢すでに25年を超え、鈍足で時代遅れの戦艦にもはや出番はないかと思われたが、時代は安穏な余生を許しはしなかった。  1944年10月、ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ軍部隊がフィリピン、レイテ湾に上陸。フィリピン陥落は本土と南方資源地帯の連絡が途絶することを意味していた。  軍上層部はここで米軍との一大決戦を決心。たび重なる敗戦で戦力が枯渇していた海軍は扶桑型戦艦二隻にも出撃を要請。  もはや出番はないと思っていた乗員たちは涙を流して喜び、夜を日に継ぐ猛訓練を実施して短期間で練度を向上。  西村中将の下で姉妹艦である戦艦[[扶桑]]と共に、重巡[[最上]]、駆逐艦[[山雲]]、[[満潮]]、[[朝雲]]、[[時雨]]を率いレイテ湾に突入、米上陸部隊を撃退するよう命令を下される。  10月22日15時30分にブルネイを出撃した山城率いる西村艦隊は 航空機による援護が望めない圧倒的な劣勢下にも関わらず、幸運が重なり24日には全艦無事にレイテ湾の入り口、スリガオ海峡付近に到着した。  同時刻にレイテ突入の手筈だった主力の戦艦[[大和]]、[[武蔵]]を有する栗田艦隊は、米航空部隊の猛攻で到着が遅滞していたため、西村中将は単独でのスリガオ海峡突入を決意。  25日未明にスリガオ海峡に達した西村艦隊だったが、待ち伏せていた戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻の集中攻撃に晒されてしまう。  深夜3時8分から駆逐艦と魚雷艇の波状攻撃が始まり、まず戦艦[[扶桑]]が駆逐艦メルヴィンの魚雷4本を受け戦線離脱し、20分後に弾薬庫に引火して轟沈。  次に駆逐艦「マクデルマット」、「モンセン」、「リメイ」より魚雷27本の攻撃を受けて駆逐艦[[山雲]]、[[満潮]]、[[朝雲]]が撃沈。 &bold(){山城}にも魚雷2本が命中して速力が低下。艦橋から後ろが大火災となって、後部弾薬庫にも火の手が迫り3番主砲以下が使用不能となった。  4時前にはレイテ湾口を目前にするも、「丁字陣形」で待ち受ける米戦艦、米巡洋艦部隊と遭遇。  すでに艦隊は半減し、援護も望めない戦況下であったが西村中将は山城から「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク、各艦ハワレヲ顧ミズ前進シ、敵ヲ攻撃スベシ」と命令を下し重巡[[最上]]、駆逐艦[[時雨]]と共に突撃を行った。  3時50分、米艦隊は距離13500mでレーダー照射による砲撃を開始。&bold(){山城}も最上と共に反撃を試みるも、レーダー装備が整っていない両艦は有効な反撃を行えず、大口径弾300発、小口径弾4,000発の砲撃を一方的に打ち込まれることになる。  [[最上]]は敵の砲弾が機関部と艦橋に命中して大火災を起こし戦線離脱、&bold(){山城}も集中砲火を浴びて上部構造物が原型を留めないまでに破壊される。 そしてさらに駆逐艦からの雷撃2発を受け速力が低下、その後弾薬庫に引火して大爆発を起こした。  爆発により艦橋は崩れ落ち、戦闘能力は完全に失われたが、それでもなお&bold(){山城}の1、2番主砲は反撃の砲撃を行ったという。  しかし、間もなく力尽きて艦長篠田勝清は総員退去を命令するも、わずか2分後の4時19分 、右舷に傾斜して艦尾より転覆。27年の長い生涯を終えた 。  &bold(){山城}の乗員1400名あまりのうち、生存者は2名のみだった。  当初は多数の生存者が海面を漂っていたが、多くが米軍の救助を拒否して自決、また近くの島に上陸した少数の生存者も丸腰だったため殆どが原住民の襲撃により殺害され たという。  国家の期待を一身に受けながら生まれる前から時代遅れと言われ、国運を賭けた大戦では同年代の金剛型が大活躍するのを尻目に本土で待機の日々を過ごし、戦力枯渇により引き出されるも、最新のレーダー装備の敵艦隊に一方的に攻撃されて沈む……。  生まれたその日から最期の日まで、時代に翻弄され続けた不運な艦であった。 ※参考資料 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E6%88%A6%E8%89%A6) http://www.ne.jp/asahi/kkd/yog/gf4_5.htm ---- *台詞一覧 ---- |状況 |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|扶桑型戦艦姉妹、妹のほう、山城です。あの、扶桑姉さま、見ませんでした?|スリガオ海峡海戦時、旗艦山城は扶桑の落伍に気付かなかったと言われている| |秘書クリック会話①|扶桑お姉さま?|| |秘書クリック会話②|不幸?私が?ち、違いますから|扶桑型はその悲惨な運命から日本海軍随一の不幸な艦とされている| |秘書クリック会話③|姉さま!? なんだ…提督か|| |戦績表示時|手紙…不幸の手紙かしら…!?|| |編成選択時|扶桑型戦艦山城、出撃します!|| |装備時①|姉さまより先でいいのでしょうか?|実は山城は昭和3年~4年までの一年間、連合艦隊旗艦だった。&br()…が、姉の扶桑はなれなかった。| |装備時②|近代化改装…これで、欠陥戦艦とは言わせないし|史実参照、残念ながら何回改装しても欠陥でした・・・| |装備時③|不幸だわ…|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |ドック入り|わたし…大体ドックにいますよね…|「艦隊にいるほうが珍しい戦艦」の異名より| |ドック入り(重傷)|艦隊にいるほうが珍しい戦艦って…ひどい言い方するのね|扶桑型は多くの欠陥を抱えており、その対処のために度々ドック入りしていた| |建造時|姉さま?新しい艦ができたみたい|| |艦隊帰投時|艦隊が帰ってきました…|ほっとしてるわけでもなく凄まじくテンションが低い。| |出撃時|姉さま…山城、必ず帰ってきます!|| |戦闘開始時|敵艦隊発見!砲戦、用意して!|| |航空戦開始時|姉さまも戦っているかしら…|改のみ・夜戦攻撃時と同じ| |攻撃時|主砲、よく狙って……ってー!|| |夜戦開始時|いよいよ夜戦…いやな予感がするの…|撃沈した戦いが夜戦であった| |夜戦/航空攻撃時|姉さまも戦っているかしら…|山城は姉妹艦扶桑と共にでスリガオ海峡で夜戦を戦った&br()台詞は航空戦開始時と同じ| |MVP時|えっ?私が活躍したの…?うそ、そんな!?…本当!?姉さま、見ててくれた!?|旧型戦艦である山城は長らく後方に置かれ、活躍の機会はなかった| |被弾小破①|痛い!やっぱり不幸だわ…|| |被弾小破②|被弾!?弾薬庫に火は回ってない!?|弾薬庫への引火が致命傷となった| |被弾カットイン|やだ、魚雷…?各艦は私を省みず前進して、敵を撃滅してくださ~~~い!|スリガオ海峡の夜戦にて、多数の魚雷が命中した山城から、西村祥治中将は&br()「我魚雷を受く。各艦は我に省みず前進し、敵を攻撃すべし」と残存艦に指令を出した| |撃沈時(反転)|COLOR(white):扶桑姉さま…あちらの世界でもご一緒に…|COLOR(white):扶桑、山城共に1944年10月25日にスリガオ海峡で沈没。&br()時間的には扶桑が先に沈み、山城が後を追う形になった。| ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=コメント/山城) ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告
#image(No027.jpg) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV ---- 藤田咲 ---- *史実情報 ---- #image(Japanese_battleship_Yamashiro.jpg)  日本初の自国設計・自国建造の純国産超ド級戦艦である扶桑型戦艦の2番艦として横須賀海軍工廠で建造された。  35.6cm連装砲塔6基12門の重武装、当時としては高速の22.5ノットの扶桑型戦艦は、世界最大・最強の戦艦となる……はずであった。  だが、山城は就役する前から時代遅れの戦艦、というレッテルを貼られることになる。  事の発端は就役前年に行われたジュットランド沖海戦。  第一次世界大戦最大にして唯一の主力艦隊同士による決戦となったこの海戦で、日本戦艦のお手本となったイギリスの巡洋戦艦部隊が、ドイツの重装甲戦艦と激突。  海戦はイギリス巡洋戦艦部隊が数発の直撃弾で次々と撃沈していく一方、ドイツの重装甲戦艦は数十発も被弾しても沈まず、イギリス型巡洋戦艦の欠点と装甲防御の重要性が明らかとなった。  35.6cm連装砲塔6基を艦体に万遍なく配置した扶桑型は、装甲防御に致命的な欠点を有しており、自慢の攻撃力もバラバラに配置された主砲の射撃指揮が難しく、一斉射撃を行うと爆風と衝撃で艦の上部構造物に傷害を与えるという有様だった。  日本海軍の大きな期待を背負って建造された扶桑型戦艦であったが、こうしたあまりにも大きな欠点を持っていたため、4隻建造予定だったのを2番艦の&bold(){山城}でキャンセルし、残りの2隻は再設計の上で伊勢型戦艦として建造されることになる。  さて、このような欠陥を抱えていたとしても、作ってしまった以上は使うしかない。  欠点が見つかれば改装を行い、また欠点があるので改装を行い、ということを繰り返した結果、艦隊行動の期間よりドックで改装を行っていた期間のほうが長くなり、“艦隊にいる方が珍しい艦”と揶揄された。  特に昭和5年からは、船体、主砲、主機、艦橋、兵装、煙突にいたるまで大規模な改装を5年かけて行ったが、根本的な性能不足はいかんともしがたかった。  このため太平洋戦争でも内地で練習艦として多くの時間を過ごし、ミッドウェー海戦では第一艦隊第二戦隊として[[伊勢]]、[[日向]]、[[扶桑]] と共に出撃するも、戦争の主役は航空艦隊に奪われ、低防御・鈍足の旧型戦艦部隊に活躍の機会は巡って来なかった。  ミッドウェー海戦後の空母戦力の不足を補うため、伊勢型と共に航空戦艦改装を検討されるも、結局改造されることはなく内地での待機・練習艦任務を続けることになる。  砲術学校練習艦とされた彼女は、乗り組む士官も肺病を患った後の療養中のような人物が多く、ほとんど予備艦のように扱われた。  乗員たちは戦局が日々悪化していくのを内地で指をくわえて見ているしかなく、なぜ出してもらえないのかと嘆き、艦の雰囲気は陰々滅々としていたという。  艦齢すでに25年を超え、鈍足で時代遅れの戦艦にもはや出番はないかと思われたが、時代は安穏な余生を許しはしなかった。  1944年10月、ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ軍部隊がフィリピン、レイテ湾に上陸。フィリピン陥落は本土と南方資源地帯の連絡が途絶することを意味していた。  軍上層部はここで米軍との一大決戦を決心。たび重なる敗戦で戦力が枯渇していた海軍は扶桑型戦艦二隻にも出撃を要請。  もはや出番はないと思っていた乗員たちは涙を流して喜び、夜を日に継ぐ猛訓練を実施して短期間で練度を向上。  西村中将の下で姉妹艦である戦艦[[扶桑]]と共に、重巡[[最上]]、駆逐艦[[山雲]]、[[満潮]]、[[朝雲]]、[[時雨]]を率いレイテ湾に突入、米上陸部隊を撃退するよう命令を下される。  10月22日15時30分にブルネイを出撃した山城率いる西村艦隊は 航空機による援護が望めない圧倒的な劣勢下にも関わらず、幸運が重なり24日には全艦無事にレイテ湾の入り口、スリガオ海峡付近に到着した。  同時刻にレイテ突入の手筈だった主力の戦艦[[大和]]、[[武蔵]]を有する栗田艦隊は、米航空部隊の猛攻で到着が遅滞していたため、西村中将は単独でのスリガオ海峡突入を決意。  25日未明にスリガオ海峡に達した西村艦隊だったが、待ち伏せていた戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻の集中攻撃に晒されてしまう。  深夜3時8分から駆逐艦と魚雷艇の波状攻撃が始まり、まず戦艦[[扶桑]]が駆逐艦メルヴィンの魚雷4本を受け戦線離脱し、20分後に弾薬庫に引火して轟沈。  次に駆逐艦「マクデルマット」、「モンセン」、「リメイ」より魚雷27本の攻撃を受けて駆逐艦[[山雲]]、[[満潮]]、[[朝雲]]が撃沈。 &bold(){山城}にも魚雷2本が命中して速力が低下。艦橋から後ろが大火災となって、後部弾薬庫にも火の手が迫り3番主砲以下が使用不能となった。  4時前にはレイテ湾口を目前にするも、「丁字陣形」で待ち受ける米戦艦、米巡洋艦部隊と遭遇。  すでに艦隊は半減し、援護も望めない戦況下であったが西村中将は山城から「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク、各艦ハワレヲ顧ミズ前進シ、敵ヲ攻撃スベシ」と命令を下し重巡[[最上]]、駆逐艦[[時雨]]と共に突撃を行った。  3時50分、米艦隊は距離13500mでレーダー照射による砲撃を開始。&bold(){山城}も最上と共に反撃を試みるも、レーダー装備が整っていない両艦は有効な反撃を行えず、大口径弾300発、小口径弾4,000発の砲撃を一方的に打ち込まれることになる。  [[最上]]は敵の砲弾が機関部と艦橋に命中して大火災を起こし戦線離脱、&bold(){山城}も集中砲火を浴びて上部構造物が原型を留めないまでに破壊される。 そしてさらに駆逐艦からの雷撃2発を受け速力が低下、その後弾薬庫に引火して大爆発を起こした。  爆発により艦橋は崩れ落ち、戦闘能力は完全に失われたが、それでもなお&bold(){山城}の1、2番主砲は反撃の砲撃を行ったという。  しかし、間もなく力尽きて艦長篠田勝清は総員退去を命令するも、わずか2分後の4時19分 、右舷に傾斜して艦尾より転覆。27年の長い生涯を終えた 。  &bold(){山城}の乗員1400名あまりのうち、生存者は2名のみだった。  当初は多数の生存者が海面を漂っていたが、多くが米軍の救助を拒否して自決、また近くの島に上陸した少数の生存者も丸腰だったため殆どが原住民の襲撃により殺害され たという。  国家の期待を一身に受けながら生まれる前から時代遅れと言われ、国運を賭けた大戦では同年代の金剛型が大活躍するのを尻目に本土で待機の日々を過ごし、戦力枯渇により引き出されるも、最新のレーダー装備の敵艦隊に一方的に攻撃されて沈む……。  生まれたその日から最期の日まで、時代に翻弄され続けた不運な艦であった。 ※参考資料 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E6%88%A6%E8%89%A6) http://www.ne.jp/asahi/kkd/yog/gf4_5.htm ---- *台詞一覧 ---- |状況 |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|扶桑型戦艦姉妹、妹のほう、山城です。あの、扶桑姉さま、見ませんでした?|スリガオ海峡海戦時、旗艦山城は扶桑の落伍に気付かなかったと言われている| |秘書クリック会話①|扶桑お姉さま?|| |秘書クリック会話②|不幸?私が?ち、違いますから|扶桑型はその悲惨な運命から日本海軍随一の不幸な艦とされている| |秘書クリック会話③|姉さま!? なんだ…提督か|| |戦績表示時|手紙…不幸の手紙かしら…!?|| |編成選択時|扶桑型戦艦山城、出撃します!|| |装備時①|姉さまより先でいいのでしょうか?|実は山城は昭和3年~4年までの一年間、連合艦隊旗艦だった。&br()…が、姉の扶桑はなれなかった。| |装備時②|近代化改装…これで、欠陥戦艦とは言わせないし|史実参照、残念ながら何回改装しても欠陥でした・・・| |装備時③|不幸だわ…|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |ドック入り|わたし…大体ドックにいますよね…|「艦隊にいるほうが珍しい戦艦」の異名より| |ドック入り(重傷)|艦隊にいるほうが珍しい戦艦って…ひどい言い方するのね|扶桑型は多くの欠陥を抱えており、その対処のために度々ドック入りしていた| |建造時|姉さま?新しい艦ができたみたい|| |艦隊帰投時|艦隊が帰ってきました…|ほっとしてるわけでもなく凄まじくテンションが低い。| |出撃時|姉さま…山城、必ず帰ってきます!|| |戦闘開始時|敵艦隊発見!砲戦、用意して!|| |航空戦開始時|姉さまも戦っているかしら…|改のみ・夜戦攻撃時と同じ| |攻撃時|主砲、よく狙って……ってー!|| |夜戦開始時|いよいよ夜戦…いやな予感がするの…|撃沈した戦いが夜戦であった| |夜戦/航空攻撃時|姉さまも戦っているかしら…|山城は姉妹艦扶桑と共にでスリガオ海峡で夜戦を戦った&br()台詞は航空戦開始時と同じ| |MVP時|えっ?私が活躍したの…?うそ、そんな!?…本当!?姉さま、見ててくれた!?|旧型戦艦である山城は長らく後方に置かれ、活躍の機会はなかった| |被弾小破①|痛い!やっぱり不幸だわ…|| |被弾小破②|被弾!?弾薬庫に火は回ってない!?|弾薬庫への引火が致命傷となった| |被弾カットイン|やだ、魚雷…?各艦は私を省みず前進して、敵を撃滅してくださ~~~い!|スリガオ海峡の夜戦にて、多数の魚雷が命中した山城から、西村祥治中将は&br()「我魚雷を受く。各艦は我に省みず前進し、敵を攻撃すべし」と残存艦に指令を出した| |撃沈時(反転)|COLOR(white):扶桑姉さま…あちらの世界でもご一緒に…|COLOR(white):扶桑、山城共に1944年10月25日にスリガオ海峡で沈没。&br()時間的には扶桑が先に沈み、山城が後を追う形になった。| ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=山城/コメント) ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告

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