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#image(No025.jpg)
#contents()
&autolink(id=wikibody)
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*CV
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洲崎綾
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*史実情報
鳳翔型空母艦「[[鳳翔]]」は、設計と開発段階から「純粋空母」としての運行を目的として建造された艦、つまり「正規空母」として世界で最初に完成し、第二次世界大戦に実戦投入された艦艇である。
そして、1921年の竣工から1947年の解体まで、帝国海軍の栄枯盛衰を見守った、空「母」である。
#image(Hosho1.jpg)
第一次世界大戦後、帝国海軍は同盟国である英国の空母運用に当初より多大な関心を寄せていたが、自国建造の試みには技術的困難を抱えている状況であった。
英国は1921年、センピル卿を長とする軍事技術団を日本に派遣し、日本空母建造の中核となる空母デッキの建造技術を指導した。
同時に海軍は三菱を通じてイギリス空軍の退役将校フレデリック・ラトランドを航空機設計技師の名目で雇用し、空母着艦技術を日本側パイロットに伝授させた。
このように、「[[鳳翔]]」の竣工・運用までにはイギリス人の助力があった。
そして1918年の八六艦隊計画のもと起工されたのが、鳳翔型航空母艦である。
着工した時点では特務艦として類別され、艦名は「竜飛」を予定していたが、途中で「[[鳳翔]]」に改名された。
また当初は改良型の二番艦「翔鶴」も建造が検討されたが、こちらはワシントン軍縮条約によって天城型巡洋戦艦を航空母艦に改装することとなり、計画中止となった。
その後二番艦「翔鶴」の名前は[[翔鶴型航空母艦一番艦>翔鶴]]に転用される。
#image(Hosho2.jpg)
建造当初は起倒式の3本煙突と、安定性強化のため当時の新技術であったジャイロ・スタビライザーを採用。
全通形式の飛行甲板のために8cm高角砲2門は甲板内に引き込み式とし、アイランド構造の戦闘指揮所を持っており、右舷に艦橋と煙突を集中させている。
このため新造時から近代空母の雛形としての形状を成していた。
しかし元来の艦型が小型であり、また航空機の大型化に伴って飛行甲板幅に余裕が無くなってきたことから、アイランド式艦橋も煙突も、どちらも運用上の障害となってしまう。
(そもそも、これのせいで「[[鳳翔]]」には誰も着艦できず、艦上機を作っていた三菱は、なんと「鳳翔に着艦できた方には賞金をプレゼント!」と発表したという衝撃エピソードがある)
1924年の飛行甲板の艦首の傾斜を平坦にする改装を行った際に、アイランドは撤去された。
その後、船体各部の補強を行い、航空機着艦時に使用する制動装置も、イギリス式の縦索式は制動力が低く甲板上での作業もし辛かったため、フランス式の横索式に変更した。
#image(Hosho3.jpg)
日本海軍は艦載機用カタパルトを開発できなかったため、太平洋戦争開戦後の最新機を運用することは不可能だった。
これは航空技術が大きく進歩を遂げ、布張りの軽量な航空機から、金属製の大型で重量のある航空機へと進化を遂げていったためである。
重量のある航空機を運用するには、より大きな飛行甲板が必要だったのだ。
1936年に燃料を重油とする重油専焼式ボイラーに換装した際に、3本煙突は寝かせた状態で固定された。また近接火器のルイス [[7.7mm単装機銃>7.7mm機銃]]2丁から13.2mm連装機銃6基に更新された。
1940年10月に復元性の維持の為に引き込み式の8cm高角砲を2門とも撤去し、代わりに[[九六式 25mm(60口径)連装機銃>25mm連装機銃]]6基に更新され、舷側に張り出し(スポンソン)を片舷2か所ずつ計4か所に配置した。
1942年に対空火器の強化のため[[14cm速射砲>14cm単装砲]]4基を撤去し、[[25mm連装機銃]]2基を追加したため、更にスポンソン2か所を新設して計6箇所となった。
1944年に飛行甲板の延長が行われ、艦首と艦尾側に延長されて180.8mとなった。
…とここまで雑多に改修箇所を並べて分かる通り、何回も細かく改造を施して艦形が大きく変化していった空母である。分かり易く言えば、どんどん効率良く改造されたということ。
本艦は初「正規空母」として建造されたものの、実際は「実験艦」といっても良いくらいの扱いで、数々の試行錯誤の上に成り立ったシンプル構造の軽空母であった。
しかし、「[[鳳翔]]」のくどいくらいの改修は、その後の帝国海軍を支える多彩な空母を生み出す貴重なデータとなったのも事実である。
(ちなみに、ここからのデータを使って設計されたのは「[[赤城]]」「[[龍驤]]」「[[翔鶴]]」など。その設計は…お察し下さい)
とはいえ建造された以上は使役しなければならないが、老朽艦のため日中戦争を戦った後は練習艦に格下げとなり、後に続いた我が子の活躍を内地で見守った。
そしてその意思を引き継いだ後続の空母達は、あらゆるところで奮戦し、傷つき、相次いで沈没していった。
1945年8月15日の終戦時には、残存している空母も全て損傷し出撃不可、無傷で出撃できる空母はただ1隻しか残っていなかった。
そう、他ならぬ「[[鳳翔]]」ただ1隻である。
終わってみれば、その我が子は殆どが沈没、傷だらけになっており、自分だけが無傷で生き延びるという最悪の結末を迎えてしまう。
我が子沈没の報を聞くのはさぞかし断腸の思いであっただろう。
初陣は1932年2月、第一次上海事変で出撃。搭載機が日本機として初の撃墜を記録。
1935年9月、台風による暴風雨で艦首の飛行甲板を損傷(第四艦隊事件)。1937年(昭和12年)8月、日中戦争に参加。
太平洋戦争開戦時はとにかく古かったため出撃の通知はこなかったが、1942年6月5日のミッドウェー海戦では[[九六式艦上攻撃機>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%85%AD%E5%BC%8F%E8%89%A6%E4%B8%8A%E6%94%BB%E6%92%83%E6%A9%9F]]6機を搭載し、老骨にむち打って出撃。
警戒艦として戦艦を基幹とするミッドウェー島攻略部隊主力に編入されたが交戦は無かった。なお、炎上大破して漂流する「[[飛龍]]」の写真は「[[鳳翔]]」の搭載機が撮影したものである。
その後、新型機に対応するため飛行甲板やエレベーターを拡大したために外洋航海に支障が生じ、訓練用空母として内海で運用されることになった。
#image(Hosho4.jpg)
開戦後に建造され、戦闘により小破または中破のみで終戦まで生き残った空母は他にも多数存在したが、開戦時に日本海軍に在籍していた艦艇の中で完全な無傷で終戦を迎えたのは
皮肉にも「[[鳳翔]]」のみであった。
戦後は延長した飛行甲板を撤去した上で復員輸送艦として使われ、1946年8月まで内地と南方間を9往復して、およそ4万人の将兵と民間人を輸送するという任務を遂行。
1946年8月31日~1947年5月1日、大阪の日立造船桜島工場で解体され生涯を閉じた。
桜島工場では空母「[[葛城]]」も解体されており、最初から航空母艦として起工され完成した「最初の艦」と「最後の艦」が奇しくも同じ工場で解体されていたことになる。
|>|>|艦歴|
|発注|>|特務艦|
|起工|1919年11月16日|浅野造船鶴見造船所にて起工|
||年月日不詳|「竜飛」から「鳳翔」に改名|
|進水|1921年11月13日|浅野造船鶴見造船所にて進水。航空母艦に類別変更|
||1922年09月10日|横須賀海軍工廠に曳航。艤装開始|
|竣工|1922年12月27日|横須賀鎮守府所属|
||1923年02月05日|横須賀沖で日本初の着艦実験を行う。英国人操縦士ジョルダン元大尉が着艦に成功|
||1923年09月01日|第一艦隊に編入|
||1923年11月15日|第一艦隊から外される|
||1925年04月15日|改修工事を行う。(飛行甲板の傾斜廃止・艦橋とクレーンの撤去等)|
||1925年09月01日|連合艦隊に編入|
||1937年12月01日|呉鎮守府籍に転籍。予備艦となる|
||1940年11月15日|復帰。第一艦隊第三航空戦隊に編入|
||1941年12月08日|ハワイ空襲部隊を支援|
||1942年03月12日|日本近海に接近した米艦隊を追跡|
||1942年04月01日|第一艦隊付属に編入|
||1942年06月05日|ミッドウェー作戦に参加。偵察機が大破した航空母艦“[[飛龍]]”を発見|
||1942年06月15日|練習空母となる|
|除籍|1945年10月05日|除籍。航行に支障の出た飛行甲板の一部を撤去し復員艦として使用|
|解体|1946年08月31日|解体開始|
||1947年05月01日|解体完了|
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*台詞一覧
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|状況|台詞|関連する史実や元ネタ、解説など|
|自己紹介|航空母艦「鳳翔」です。不束者ですが、よろしくお願いいたします||
|秘書クリック会話①|お茶にしましょうか||
|秘書クリック会話②|よい風ですね||
|秘書クリック会話③|おつかれさまです。お風呂にしますか?御飯にしますか?それとも・・・ふふっ、冗談ですよ|それとも・・・わ・た・し? 新婚三択より|
|秘書クリック会話③(改)|私の夢ですか?そうですね、いつか二人で小さなお店でも開きたいですね…ってあらやだ、ごめんなさい。忘れてください|千歳の時報台詞から、お店自体は既にやっているらしい。元は二次創作ネタ「居酒屋鳳翔」より|
|戦績表示時|提督にお知らせが届いていますね||
|編成選択時|実戦ですか・・・致し方ありませんね|マップ選択時も同じ|
|装備時①|すみません、私の武装を強化してくれるなんて・・・||
|装備時②|私には・・・少し大げさではないでしょうか?||
|装備時③|大丈夫ね||
|>|>|(資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)|
|補給時(改)|提督、ありがとうございます|改造前は装備時①と共通|
|ドック入り|そうですね、少しだけお休みします||
|ドック入り(重傷)|私が無茶しては駄目ですね|帝国海軍全ての空母の母である|
|建造時|新しい子たちが来るみたいね||
|艦隊帰投時|おつかれさまでした、艦隊が帰って来ましたね||
|出撃時|鳳翔、出撃いたします||
|戦闘開始時|風向き・・・良し!航空部隊、発艦!|艦載機の発艦時は対気速度を得るために風上へと全速航行する|
|航空戦開始時|いつまでも演習ってわけにも行きません|鳳翔は太平洋戦争開戦後はもっぱら内地で練習用空母の任につき、新人パイロットの訓練に用いられた|
|攻撃時|これは・・・演習ではなくて実戦よ|演習でも同じことを言う|
|夜戦開始時|やる時は・・・やるのです!||
|MVP時|そんな・・・本当ですか?私もお役に立てたのなら・・・嬉しいです||
|被弾小破①|ぁんっ!?飛行甲板が・・・!||
|被弾小破②|きゃぁっ!?||
|被弾カットイン|このまま沈むわけにはまいりません||
|撃沈時(反転)|COLOR(white):私も…沈むのですね…|COLOR(white):旧型艦ゆえ実戦には出られず、無傷で終戦を迎えた。|
|放置時|提督、私、ここに控えていますので御用があればいつでもおっしゃってくださいね。||
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*コメント
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洲崎綾
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*史実情報
鳳翔型空母艦「[[鳳翔]]」は、設計と開発段階から「純粋空母」としての運行を目的として建造された艦、つまり「正規空母」として世界で最初に完成し、第二次世界大戦に実戦投入された艦艇である。
そして、1921年の竣工から1947年の解体まで、帝国海軍の栄枯盛衰を見守った、空「母」である。
#image(Hosho1.jpg)
第一次世界大戦後、帝国海軍は同盟国である英国の空母運用に当初より多大な関心を寄せていたが、自国建造の試みには技術的困難を抱えている状況であった。
英国は1921年、センピル卿を長とする軍事技術団を日本に派遣し、日本空母建造の中核となる空母デッキの建造技術を指導した。
同時に海軍は三菱を通じてイギリス空軍の退役将校フレデリック・ラトランドを航空機設計技師の名目で雇用し、空母着艦技術を日本側パイロットに伝授させた。
このように、「[[鳳翔]]」の竣工・運用までにはイギリス人の助力があった。
そして1918年の八六艦隊計画のもと起工されたのが、鳳翔型航空母艦である。
着工した時点では特務艦として類別され、艦名は「竜飛」を予定していたが、途中で「[[鳳翔]]」に改名された。
また当初は改良型の二番艦「翔鶴」も建造が検討されたが、こちらはワシントン軍縮条約によって天城型巡洋戦艦を航空母艦に改装することとなり、計画中止となった。
その後二番艦「翔鶴」の名前は[[翔鶴型航空母艦一番艦>翔鶴]]に転用される。
#image(Hosho2.jpg)
建造当初は起倒式の3本煙突と、安定性強化のため当時の新技術であったジャイロ・スタビライザーを採用。
全通形式の飛行甲板のために8cm高角砲2門は甲板内に引き込み式とし、アイランド構造の戦闘指揮所を持っており、右舷に艦橋と煙突を集中させている。
このため新造時から近代空母の雛形としての形状を成していた。
しかし元来の艦型が小型であり、また航空機の大型化に伴って飛行甲板幅に余裕が無くなってきたことから、アイランド式艦橋も煙突も、どちらも運用上の障害となってしまう。
(そもそも、これのせいで「[[鳳翔]]」には誰も着艦できず、艦上機を作っていた三菱は、なんと「鳳翔に着艦できた方には賞金をプレゼント!」と発表したという衝撃エピソードがある)
1924年の飛行甲板の艦首の傾斜を平坦にする改装を行った際に、アイランドは撤去された。
その後、船体各部の補強を行い、航空機着艦時に使用する制動装置も、イギリス式の縦索式は制動力が低く甲板上での作業もし辛かったため、フランス式の横索式に変更した。
#image(Hosho3.jpg)
日本海軍は艦載機用カタパルトを開発できなかったため、太平洋戦争開戦後の最新機を運用することは不可能だった。
これは航空技術が大きく進歩を遂げ、布張りの軽量な航空機から、金属製の大型で重量のある航空機へと進化を遂げていったためである。
重量のある航空機を運用するには、より大きな飛行甲板が必要だったのだ。
1936年に燃料を重油とする重油専焼式ボイラーに換装した際に、3本煙突は寝かせた状態で固定された。また近接火器のルイス [[7.7mm単装機銃>7.7mm機銃]]2丁から13.2mm連装機銃6基に更新された。
1940年10月に復元性の維持の為に引き込み式の8cm高角砲を2門とも撤去し、代わりに[[九六式 25mm(60口径)連装機銃>25mm連装機銃]]6基に更新され、舷側に張り出し(スポンソン)を片舷2か所ずつ計4か所に配置した。
1942年に対空火器の強化のため[[14cm速射砲>14cm単装砲]]4基を撤去し、[[25mm連装機銃]]2基を追加したため、更にスポンソン2か所を新設して計6箇所となった。
1944年に飛行甲板の延長が行われ、艦首と艦尾側に延長されて180.8mとなった。
…とここまで雑多に改修箇所を並べて分かる通り、何回も細かく改造を施して艦形が大きく変化していった空母である。分かり易く言えば、どんどん効率良く改造されたということ。
本艦は初「正規空母」として建造されたものの、実際は「実験艦」といっても良いくらいの扱いで、数々の試行錯誤の上に成り立ったシンプル構造の軽空母であった。
しかし、「[[鳳翔]]」のくどいくらいの改修は、その後の帝国海軍を支える多彩な空母を生み出す貴重なデータとなったのも事実である。
(ちなみに、ここからのデータを使って設計されたのは「[[赤城]]」「[[龍驤]]」「[[翔鶴]]」など。その設計は…お察し下さい)
とはいえ建造された以上は使役しなければならないが、老朽艦のため日中戦争を戦った後は練習艦に格下げとなり、後に続いた我が子の活躍を内地で見守った。
そしてその意思を引き継いだ後続の空母達は、あらゆるところで奮戦し、傷つき、相次いで沈没していった。
1945年8月15日の終戦時には、残存している空母も全て損傷し出撃不可、無傷で出撃できる空母はただ1隻しか残っていなかった。
そう、他ならぬ「[[鳳翔]]」ただ1隻である。
終わってみれば、その我が子は殆どが沈没、傷だらけになっており、自分だけが無傷で生き延びるという最悪の結末を迎えてしまう。
我が子沈没の報を聞くのはさぞかし断腸の思いであっただろう。
初陣は1932年2月、第一次上海事変で出撃。搭載機が日本機として初の撃墜を記録。
1935年9月、台風による暴風雨で艦首の飛行甲板を損傷(第四艦隊事件)。1937年(昭和12年)8月、日中戦争に参加。
太平洋戦争開戦時はとにかく古かったため出撃の通知はこなかったが、1942年6月5日のミッドウェー海戦では[[九六式艦上攻撃機>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%85%AD%E5%BC%8F%E8%89%A6%E4%B8%8A%E6%94%BB%E6%92%83%E6%A9%9F]]6機を搭載し、老骨にむち打って出撃。
警戒艦として戦艦を基幹とするミッドウェー島攻略部隊主力に編入されたが交戦は無かった。なお、炎上大破して漂流する「[[飛龍]]」の写真は「[[鳳翔]]」の搭載機が撮影したものである。
その後、新型機に対応するため飛行甲板やエレベーターを拡大したために外洋航海に支障が生じ、訓練用空母として内海で運用されることになった。
#image(Hosho4.jpg)
開戦後に建造され、戦闘により小破または中破のみで終戦まで生き残った空母は他にも多数存在したが、開戦時に日本海軍に在籍していた艦艇の中で完全な無傷で終戦を迎えたのは
皮肉にも「[[鳳翔]]」のみであった。
戦後は延長した飛行甲板を撤去した上で復員輸送艦として使われ、1946年8月まで内地と南方間を9往復して、およそ4万人の将兵と民間人を輸送するという任務を遂行。
1946年8月31日~1947年5月1日、大阪の日立造船桜島工場で解体され生涯を閉じた。
桜島工場では空母「[[葛城]]」も解体されており、最初から航空母艦として起工され完成した「最初の艦」と「最後の艦」が奇しくも同じ工場で解体されていたことになる。
|>|>|艦歴|
|発注|>|特務艦|
|起工|1919年11月16日|浅野造船鶴見造船所にて起工|
||年月日不詳|「竜飛」から「鳳翔」に改名|
|進水|1921年11月13日|浅野造船鶴見造船所にて進水。航空母艦に類別変更|
||1922年09月10日|横須賀海軍工廠に曳航。艤装開始|
|竣工|1922年12月27日|横須賀鎮守府所属|
||1923年02月05日|横須賀沖で日本初の着艦実験を行う。英国人操縦士ジョルダン元大尉が着艦に成功|
||1923年09月01日|第一艦隊に編入|
||1923年11月15日|第一艦隊から外される|
||1925年04月15日|改修工事を行う。(飛行甲板の傾斜廃止・艦橋とクレーンの撤去等)|
||1925年09月01日|連合艦隊に編入|
||1937年12月01日|呉鎮守府籍に転籍。予備艦となる|
||1940年11月15日|復帰。第一艦隊第三航空戦隊に編入|
||1941年12月08日|ハワイ空襲部隊を支援|
||1942年03月12日|日本近海に接近した米艦隊を追跡|
||1942年04月01日|第一艦隊付属に編入|
||1942年06月05日|ミッドウェー作戦に参加。偵察機が大破した航空母艦“[[飛龍]]”を発見|
||1942年06月15日|練習空母となる|
|除籍|1945年10月05日|除籍。航行に支障の出た飛行甲板の一部を撤去し復員艦として使用|
|解体|1946年08月31日|解体開始|
||1947年05月01日|解体完了|
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|状況|台詞|関連する史実や元ネタ、解説など|
|自己紹介|航空母艦「鳳翔」です。不束者ですが、よろしくお願いいたします||
|秘書クリック会話①|お茶にしましょうか||
|秘書クリック会話②|よい風ですね||
|秘書クリック会話③|おつかれさまです。お風呂にしますか?御飯にしますか?それとも・・・ふふっ、冗談ですよ|それとも・・・わ・た・し? 新婚三択より|
|秘書クリック会話③(改)|私の夢ですか?そうですね、いつか二人で小さなお店でも開きたいですね…ってあらやだ、ごめんなさい。忘れてください|千歳の時報台詞から、お店自体は既にやっているらしい。元は二次創作ネタ「居酒屋鳳翔」より|
|戦績表示時|提督にお知らせが届いていますね||
|編成選択時|実戦ですか・・・致し方ありませんね|マップ選択時も同じ|
|装備時①|すみません、私の武装を強化してくれるなんて・・・||
|装備時②|私には・・・少し大げさではないでしょうか?||
|装備時③|大丈夫ね||
|>|>|(資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)|
|補給時(改)|提督、ありがとうございます|改造前は装備時①と共通|
|ドック入り|そうですね、少しだけお休みします||
|ドック入り(重傷)|私が無茶しては駄目ですね|帝国海軍全ての空母の母である|
|建造時|新しい子たちが来るみたいね||
|艦隊帰投時|おつかれさまでした、艦隊が帰って来ましたね||
|出撃時|鳳翔、出撃いたします||
|戦闘開始時|風向き・・・良し!航空部隊、発艦!|艦載機の発艦時は対気速度を得るために風上へと全速航行する|
|航空戦開始時|いつまでも演習ってわけにも行きません|鳳翔は太平洋戦争開戦後はもっぱら内地で練習用空母の任につき、新人パイロットの訓練に用いられた|
|攻撃時|これは・・・演習ではなくて実戦よ|演習でも同じことを言う|
|夜戦開始時|やる時は・・・やるのです!||
|MVP時|そんな・・・本当ですか?私もお役に立てたのなら・・・嬉しいです||
|被弾小破①|ぁんっ!?飛行甲板が・・・!||
|被弾小破②|きゃぁっ!?||
|被弾カットイン|このまま沈むわけにはまいりません||
|撃沈時(反転)|COLOR(white):私も…沈むのですね…|COLOR(white):旧型艦ゆえ実戦には出られず、無傷で終戦を迎えた。|
|放置時|提督、私、ここに控えていますので御用があればいつでもおっしゃってくださいね。||
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