島風

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#image(No010.jpg) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV ---- 佐倉綾音 ---- *Illustrator ---- しずまよしのり ---- *史実情報 ---- #ref(zekamaShi.jpg) 島風型駆逐艦は次世代の艦隊型駆逐艦として、16隻の建造が決定していた高速で重雷装の艦隊型駆逐艦であった。 が、太平洋戦争開戦による戦術の変更や、水雷戦自体の可能性の低さ、手間のかかる生産から計画は放棄され、丁型(松型駆逐艦)へと移行し、「[[島風]]」1隻のみとなった。 書類上の分類は丙型駆逐艦であり、同型艦が存在しないため、駆逐隊を組まず、常に単艦で行動していた。 なお5500t型軽巡はもちろんだが、最新鋭の阿賀野型でも島風を率いるには性能が足りず、島風型量産の暁には速力、攻撃力を増強した改阿賀野型が用意される予定だった。 それでも改阿賀野型の速力は計画上では37.5kt(恐らく過負荷状態でも38~39kt)に留まり、島風型並の高速は期待できなかった。 ちなみに「島風」が真に凄いのは速力ではなく、速力、航続力、航海性能の両立や、速力と攻撃力の高いレベルでの整合ができているという点。 もっと速い駆逐艦は世界中探せば結構あるが、それらは速力と引き換えに航続力が短く設定されている内海向けの艦が多いのである。 なお、島風という名は大日本帝国海軍では既に峯風型駆逐艦で使用されている。 この内の初代「島風」も当時の日本駆逐艦としての最高速度40.7ノットを記録、2代目もそれに因んで命名されている。 ちなみに、初代の島風は1940年に4月1日に哨戒艇に艦種変更されて「第一号哨戒艇」と改称し、1943年1月13日にビスマルク諸島カビエン沖にて戦没、同年2月10日に除籍された。 その3ヶ月後の5月10日に2代目島風が就役した。 水雷決戦を目的とする艦隊型駆逐艦の最高峰を目指し、「迅速」「強力」「最強」の駆逐艦として本型は建造された。 本型の登場まで、日本海軍の駆逐艦の速力は1920年に峯風型駆逐艦の初代島風が打ち立てた40.698ノットが最高速度であった。 後の駆逐艦は概ね35ノット前後で設計された。速いだけでは戦闘に有利にならないためである。 軍縮条約の制約から解かれた1937年以降から速力への要求が出初め、1939年には速力40ノットの艦が試験的に造られることになった。 すでに、日本海軍のお家芸、水雷の分野においては、陽炎型駆逐艦が要求水準を満たしていたものの、 アメリカ海軍が、駆逐艦の速力向上を目指しているという情報もあり、速力をも重視することとなった。 また、陽炎型の一艦「[[天津風]]」において採用された高温高圧缶の利用が有望視されていたが、これを「[[島風]]」に採用。 このほか、魚雷装備も優れており、零式5連装水上発射管は本型のために開発されたものである。 次発装填装置はないものの、これは駆逐艦最大。初期は7連装2基の案であったが、非常時に人力での展開が不可能である為、5連装3基となった。 そして公試成績において「[[島風]]」は1943年4月7日の過負荷全力公試で排水量2,894トン、出力79,240馬力において40.90ノットを記録した。 この時の排水量は通常の公試の際の2/3状態(燃料など消耗品を2/3搭載した状態)であったが、それでも一番のスピード。換算すると時速72kmである。 この高速の割に、高温高圧缶の恩恵のため意外にも巡航時の燃費は陽炎型よりも良かった。 初陣となったのは1943年7月のキスカ島撤退作戦。 連合軍に完全包囲されたキスカ島から残存兵力を撤退させるべく、作戦指揮官の木村昌福少将は『濃霧に紛れて島に接近し、迅速に残存兵を収容後、急速離脱する』という作戦プランに基づき、 濃霧の中での目視索敵を補助できる電探・逆探を備えた快速艦の配備を要請、これに応える形で就役間もない島風が派遣されることとなった。 作戦は木村少将の冷静な状況判断といくつかの幸運にも助けられ、5,000人余りの残存兵を死傷者ゼロで回収するという、戦史上極めて珍しい無傷での完全撤退という大成功を収めた。 なおこの作戦で、艦隊突入時にキスカ島近辺の小島を濃霧の中で軍艦と誤認し、[[阿武隈]]と島風が小島に向かって魚雷を発射、全弾命中させる『事件』があった。 皮肉であるが、これが島風の雷撃能力を活かしたほぼ唯一の事例である。 キスカ撤退作戦が成功すると第二水雷戦隊に編入され、トラック諸島へと向かい、艦隊・タンカーの護衛任務に就く。そこでラバウル空襲の被害を受けるもほぼ無傷であった。 その後はビアク島の戦いに赴く「[[大和]]」と重巡洋艦「[[摩耶]]」を「[[雪風]]」「山雲」とともに護衛。 同地で攻撃準備をとり待機していたが、米軍のサイパン島艦砲射撃開始により戦況が急転、サイパン島へ急行し第一機動艦隊に合流して輸送作戦を行った。 10月18日、捷一号作戦発動に伴って出撃した。10月24日からのレイテ沖海戦では第一部隊に属して戦闘に参加する。 10月24日のシブヤン海での空襲で「武蔵」が多数の命中弾を受けて満身創痍の状況下、栗田中将の命を受けて第一部隊から離れ「[[武蔵]]」の援護へと赴き乗組員を救助した。 海戦の後、ブルネイ湾を経てマニラに進出し、レイテ島行きの多号作戦に投入される事となった。 11月4日、レイテ沖海戦で沈没した「[[能代]]」に代わって第二水雷戦隊旗艦となり、多号作戦に参加、これが「[[島風]]」の転機となる。 援護の任務を「[[浜風]]」と代わって第一部隊に復帰。 多号作戦では、第三次輸送部隊に編入される。第三次輸送部隊は低速で中古の輸送船5隻を中心とし、早川少将は低速船団を高速艦で護衛することに疑念を抱いて反論したが、 南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将に大本営海軍部、連合艦隊司令部のバックアップ、さらに「これは天皇陛下のご命令である」との「勅命」を持ち出されて観念した。 輸送部隊は11月9日未明3時にマニラを出撃。折りしも雨が降っており、しかも雨は3日間降り続くと陸軍気象班は予想していた。 さらに、作戦の援護のためブルネイ湾から第一遊撃部隊が11月8日出撃。しかし、日付が11月10日に変わって状況は第三次輸送部隊にとって徐々に悪い方向に傾く。 午前3時に輸送船「せれべす丸」がルソン島ボンドック半島西岸の浅瀬に座礁し戦線を離脱。また、天気も予想に反して回復の兆しにあった。11時ごろには偵察のB-24 に発見される。 夜21時、マスバテ島東方のブラックロック水道で第四次輸送部隊とすれ違った際、第四次輸送部隊から「[[長波]]」「[[朝霜]]」「[[若月]]」の3隻が合流。「[[初春]]」「[[竹]]」が入れ替わりに第四次輸送部隊に合流・離脱した。 #ref(2zekamaShi.jpg) 11月11日未明、前日のB-24 からの通報を受けた魚雷艇隊の襲撃を跳ね返すも、第一遊撃部隊を追っていた米軍機が出現。目標と共に第三次輸送部隊を発見し、奇襲を仕掛けてきた。 応戦する「[[島風]]」はそのスピードで攻撃を回避し続けるも、物量で勝る米軍の執拗な攻撃により、機銃で穴だらけにされ徐々に速力が低下。 回避行動によって直撃弾こそ受けなかったものの、無数の小破孔から浸水、ついに航行不能となってしまう。 応急処置班の対応が間に合わないほどの凄まじい機銃の反復攻撃を受け、救援に接近しようとした「[[朝霜]]」も機銃掃射のため接近を断念した。 夕刻17時半ごろ、冷却機能が喪失し過熱したボイラーが爆発を起こして後部から沈没。 結局、島風型は「[[島風]]」1隻に終わり、陽炎型駆逐艦・夕雲型駆逐艦からなる駆逐隊にも編入されておらず、戦没まで単独で第二水雷戦隊に属していた。 1945年1月10日除籍。 余談だが、「[[島風]]」(125号艦)は後期生産の甲型駆逐艦の予算を流用して作られた試作艦であり、夕雲型の遠縁の親戚とも言える。 史実では最後まで隊列を組めなかった「[[島風]]」だが、夕雲型と一緒に運用してみるのも良いだろう。 また第三次多号作戦でともに347機を迎え撃った5隻の駆逐艦で組むのもいいかもしれない。 |>|>|艦歴| |発注|>|第四次海軍軍備充実計画丙型駆逐艦第125号艦(高速試作艦)| |起工|1941年08月08日|於舞鶴海軍工廠| |進水|1942年07月18日|島風型一等駆逐艦“島風”と命名| ||1943年04月07日|過負荷全力公試にて''全艦艇最速記録となる40.90kt(排水量2,894t、出力79,240shp)を達成''| |就役|1943年05月10日|第11水雷戦隊に編入| ||1943年07月01日|第2水雷戦隊に編入| ||1943年07月07日|第一次キスカ島撤退作戦に参加| ||1943年07月22日|第二次キスカ島撤退作戦に参加| ||1943年09月15日|12月まで単艦で横須賀~トラック間の主力艦及び輸送船団護衛に従事| ||1943年12月01日|翌年2月までトラック~バリクパパン間の船団護衛に従事| ||1944年06月10日|第三次渾作戦(ビアク島救援)参加のため「大和」「武蔵」と共にタウイ・タウイを出撃| ||1944年06月13日|米軍、マリアナ諸島へ襲来。あ号作戦発動により第三次渾作戦中止| ||1944年06月19日|あ号作戦(マリアナ沖海戦)に参加| ||1944年10月23日|捷一号作戦(レイテ沖海戦)に参加| ||1944年11月08日|第二水雷戦隊旗艦を継承| ||1944年11月09日|第三次多号作戦(レイテ増援輸送)に参加| |沈没|1944年11月11日|敵艦載機347機の波状攻撃を受ける。多数の至近弾による浸水の後、後部ボイラーが爆発、轟沈| |除籍|1945年01月10日|| ----- *台詞一覧 ----- |状況 |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|駆逐艦島風です。スピードなら誰にも負けません。速きこと、島風の如し、です!|現在「島風」より速いのは海自の「はやぶさ型ミサイル艇」のみ&br()なお「疾(はや)きこと風の如し」は兵法の基本の1つと言われる| |秘書クリック会話①|提督ぅ!おはようございまーす!|2014/4/9のアップデートで追加&br()(なぁんですかぁ!提督ぅ!はこのセリフと入れ替えになったので聞きたい場合は改造前の島風で聞ける)| |秘書クリック会話②|おうっ!?|あざらしっぽいって噂。&br()おっとかおうっとかぉ゛うっとなどと何故か人によって聞こえ方がまるで異なる。| |秘書クリック会話③|かけっこしたいんですかぁ?負けませんよぉ!|その性能を引き出すために島風型指揮専用の軽巡まで計画されるほど| |戦績表示時|提督宛てに連絡がきてるみたいよ|| |編成選択時|島風、出撃しまーす!|| |装備時①|もっともっと速くなってもいいの?|| |装備時②|これ以上速くなっても知らないから!|| |装備時③|おっそーい!|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |ドック入り|タービン周りも整備したーい!|島風型のタービンは複雑で量産できず、本格的修理は行われなかった| |ドック入り(重傷)|連装砲ちゃんも修理してあげなきゃ|島風は[[12.7cm連装砲]]D型を3基搭載していた。| |建造時|また私より遅い船が出来たみたい|島風と同じ速さの艦、妹達の建造計画は全てキャンセルされている| |艦隊帰投時|艦隊がやっと帰投したよ。遅いよねえ?|| |出撃時|連装砲ちゃん。一緒に行くよor編成選択時と同じ|| |戦闘開始時|私には誰も追いつけないよー|最速の船| |攻撃時|島風、砲雷撃戦入りますor島風、出撃しまーす|| |夜戦開始時|だからー島風からは逃げられないって(だから、島風には誰も追いつけないって!:改?)|| |夜戦攻撃時|えへへ、あなたって遅いのね!|| |MVP時|私が一番?やっぱり?そうよね!だって速いもん!|| |被弾小破①|ひゃん!?|| |被弾小破②|やーめーてーよーっ!|| |被弾カットイン|はぁ~…この私がやられるなんてー…|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):速いだけじゃ…だめなのね…|COLOR(white):米軍機の爆撃に対し回避行動をとるも敢えなく沈没| |放置時|んぅ…あ…今連装砲ちゃんとお話したの…うん、だって退屈なんだもん!|2014/4/9のアップデートで追加| ---- *同型艦 なし ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=島風/コメント) ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告
#image(No010.jpg) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV ---- 佐倉綾音 ---- *Illustrator ---- しずまよしのり ---- *史実情報 ---- #ref(zekamaShi.jpg) 島風型駆逐艦は次世代の艦隊型駆逐艦として、16隻の建造が決定していた高速で重雷装の艦隊型駆逐艦であった。 が、太平洋戦争開戦による戦術の変更や、水雷戦自体の可能性の低さ、手間のかかる生産から計画は放棄され、丁型(松型駆逐艦)へと移行し、「[[島風]]」1隻のみとなった。 書類上の分類は丙型駆逐艦であり、同型艦が存在しないため、駆逐隊を組まず、常に単艦で行動していた。 なお5500t型軽巡はもちろんだが、最新鋭の阿賀野型でも島風を率いるには性能が足りず、島風型量産の暁には速力、攻撃力を増強した改阿賀野型が用意される予定だった。 それでも改阿賀野型の速力は計画上では37.5kt(恐らく過負荷状態でも38~39kt)に留まり、島風型並の高速は期待できなかった。 ちなみに「島風」が真に凄いのは速力ではなく、速力、航続力、航海性能の両立や、速力と攻撃力の高いレベルでの整合ができているという点。 もっと速い駆逐艦は世界中探せば結構あるが、それらは速力と引き換えに航続力が短く設定されている内海向けの艦が多いのである。 なお、島風という名は大日本帝国海軍では既に峯風型駆逐艦で使用されている。 この内の初代「島風」も当時の日本駆逐艦としての最高速度40.7ノットを記録、2代目もそれに因んで命名されている。 ちなみに、初代の島風は1940年に4月1日に哨戒艇に艦種変更されて「第一号哨戒艇」と改称し、1943年1月13日にビスマルク諸島カビエン沖にて戦没、同年2月10日に除籍された。 その3ヶ月後の5月10日に2代目島風が就役した。 水雷決戦を目的とする艦隊型駆逐艦の最高峰を目指し、「迅速」「強力」「最強」の駆逐艦として本型は建造された。 本型の登場まで、日本海軍の駆逐艦の速力は1920年に峯風型駆逐艦の初代島風が打ち立てた40.698ノットが最高速度であった。 後の駆逐艦は概ね35ノット前後で設計された。速いだけでは戦闘に有利にならないためである。 軍縮条約の制約から解かれた1937年以降から速力への要求が出始め、1939年には速力40ノットの艦が試験的に造られることになった。 すでに、日本海軍のお家芸、水雷の分野においては、陽炎型駆逐艦が要求水準を満たしていたものの、 アメリカ海軍が、駆逐艦の速力向上を目指しているという情報もあり、速力をも重視することとなった。 また、陽炎型の一艦「[[天津風]]」において採用された高温高圧缶の利用が有望視されていたが、これを「[[島風]]」に採用。 このほか、魚雷装備も優れており、零式5連装水上発射管は本型のために開発されたものである。 次発装填装置はないものの、これは駆逐艦最大。初期は7連装2基の案であったが、非常時に人力での展開が不可能である為、5連装3基となった。 そして公試成績において「[[島風]]」は1943年4月7日の過負荷全力公試で排水量2,894トン、出力79,240馬力において40.90ノットを記録した。 この時の排水量は通常の公試の際の2/3状態(燃料など消耗品を2/3搭載した状態)であったが、それでも一番のスピード。換算すると時速72kmである。 この高速の割に、高温高圧缶の恩恵のため意外にも巡航時の燃費は陽炎型よりも良かった。 初陣となったのは1943年7月のキスカ島撤退作戦。 連合軍に完全包囲されたキスカ島から残存兵力を撤退させるべく、作戦指揮官の木村昌福少将は『濃霧に紛れて島に接近し、迅速に残存兵を収容後、急速離脱する』という作戦プランに基づき、 濃霧の中での目視索敵を補助できる電探・逆探を備えた快速艦の配備を要請、これに応える形で就役間もない島風が派遣されることとなった。 作戦は木村少将の冷静な状況判断といくつかの幸運にも助けられ、5,000人余りの残存兵を死傷者ゼロで回収するという、戦史上極めて珍しい無傷での完全撤退という大成功を収めた。 なおこの作戦で、艦隊突入時にキスカ島近辺の小島を濃霧の中で軍艦と誤認し、[[阿武隈]]と島風が小島に向かって魚雷を発射、全弾命中させる『事件』があった。 皮肉であるが、これが島風の雷撃能力を活かしたほぼ唯一の事例である。 キスカ撤退作戦が成功すると第二水雷戦隊に編入され、トラック諸島へと向かい、艦隊・タンカーの護衛任務に就く。そこでラバウル空襲の被害を受けるもほぼ無傷であった。 その後はビアク島の戦いに赴く「[[大和]]」と重巡洋艦「[[摩耶]]」を「[[雪風]]」「山雲」とともに護衛。 同地で攻撃準備をとり待機していたが、米軍のサイパン島艦砲射撃開始により戦況が急転、サイパン島へ急行し第一機動艦隊に合流して輸送作戦を行った。 10月18日、捷一号作戦発動に伴って出撃した。10月24日からのレイテ沖海戦では第一部隊に属して戦闘に参加する。 10月24日のシブヤン海での空襲で「武蔵」が多数の命中弾を受けて満身創痍の状況下、栗田中将の命を受けて第一部隊から離れ「[[武蔵]]」の援護へと赴き乗組員を救助した。 海戦の後、ブルネイ湾を経てマニラに進出し、レイテ島行きの多号作戦に投入される事となった。 11月4日、レイテ沖海戦で沈没した「[[能代]]」に代わって第二水雷戦隊旗艦となり、多号作戦に参加、これが「[[島風]]」の転機となる。 援護の任務を「[[浜風]]」と代わって第一部隊に復帰。 多号作戦では、第三次輸送部隊に編入される。第三次輸送部隊は低速で中古の輸送船5隻を中心とし、早川少将は低速船団を高速艦で護衛することに疑念を抱いて反論したが、 南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将に大本営海軍部、連合艦隊司令部のバックアップ、さらに「これは天皇陛下のご命令である」との「勅命」を持ち出されて観念した。 輸送部隊は11月9日未明3時にマニラを出撃。折りしも雨が降っており、しかも雨は3日間降り続くと陸軍気象班は予想していた。 さらに、作戦の援護のためブルネイ湾から第一遊撃部隊が11月8日出撃。しかし、日付が11月10日に変わって状況は第三次輸送部隊にとって徐々に悪い方向に傾く。 午前3時に輸送船「せれべす丸」がルソン島ボンドック半島西岸の浅瀬に座礁し戦線を離脱。また、天気も予想に反して回復の兆しにあった。11時ごろには偵察のB-24 に発見される。 夜21時、マスバテ島東方のブラックロック水道で第四次輸送部隊とすれ違った際、第四次輸送部隊から「[[長波]]」「[[朝霜]]」「[[若月]]」の3隻が合流。「[[初春]]」「[[竹]]」が入れ替わりに第四次輸送部隊に合流・離脱した。 #ref(2zekamaShi.jpg) 11月11日未明、前日のB-24 からの通報を受けた魚雷艇隊の襲撃を跳ね返すも、第一遊撃部隊を追っていた米軍機が出現。目標と共に第三次輸送部隊を発見し、奇襲を仕掛けてきた。 応戦する「[[島風]]」はそのスピードで攻撃を回避し続けるも、物量で勝る米軍の執拗な攻撃により、機銃で穴だらけにされ徐々に速力が低下。 回避行動によって直撃弾こそ受けなかったものの、無数の小破孔から浸水、ついに航行不能となってしまう。 応急処置班の対応が間に合わないほどの凄まじい機銃の反復攻撃を受け、救援に接近しようとした「[[朝霜]]」も機銃掃射のため接近を断念した。 夕刻17時半ごろ、冷却機能が喪失し過熱したボイラーが爆発を起こして後部から沈没。 結局、島風型は「[[島風]]」1隻に終わり、陽炎型駆逐艦・夕雲型駆逐艦からなる駆逐隊にも編入されておらず、戦没まで単独で第二水雷戦隊に属していた。 1945年1月10日除籍。 余談だが、「[[島風]]」(125号艦)は後期生産の甲型駆逐艦の予算を流用して作られた試作艦であり、夕雲型の遠縁の親戚とも言える。 史実では最後まで隊列を組めなかった「[[島風]]」だが、夕雲型と一緒に運用してみるのも良いだろう。 また第三次多号作戦でともに347機を迎え撃った5隻の駆逐艦で組むのもいいかもしれない。 |>|>|艦歴| |発注|>|第四次海軍軍備充実計画丙型駆逐艦第125号艦(高速試作艦)| |起工|1941年08月08日|於舞鶴海軍工廠| |進水|1942年07月18日|島風型一等駆逐艦“島風”と命名| ||1943年04月07日|過負荷全力公試にて''全艦艇最速記録となる40.90kt(排水量2,894t、出力79,240shp)を達成''| |就役|1943年05月10日|第11水雷戦隊に編入| ||1943年07月01日|第2水雷戦隊に編入| ||1943年07月07日|第一次キスカ島撤退作戦に参加| ||1943年07月22日|第二次キスカ島撤退作戦に参加| ||1943年09月15日|12月まで単艦で横須賀~トラック間の主力艦及び輸送船団護衛に従事| ||1943年12月01日|翌年2月までトラック~バリクパパン間の船団護衛に従事| ||1944年06月10日|第三次渾作戦(ビアク島救援)参加のため「大和」「武蔵」と共にタウイ・タウイを出撃| ||1944年06月13日|米軍、マリアナ諸島へ襲来。あ号作戦発動により第三次渾作戦中止| ||1944年06月19日|あ号作戦(マリアナ沖海戦)に参加| ||1944年10月23日|捷一号作戦(レイテ沖海戦)に参加| ||1944年11月08日|第二水雷戦隊旗艦を継承| ||1944年11月09日|第三次多号作戦(レイテ増援輸送)に参加| |沈没|1944年11月11日|敵艦載機347機の波状攻撃を受ける。多数の至近弾による浸水の後、後部ボイラーが爆発、轟沈| |除籍|1945年01月10日|| ----- *台詞一覧 ----- |状況 |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|駆逐艦島風です。スピードなら誰にも負けません。速きこと、島風の如し、です!|現在「島風」より速いのは海自の「はやぶさ型ミサイル艇」のみ&br()なお「疾(はや)きこと風の如し」は兵法の基本の1つと言われる| |秘書クリック会話①|提督ぅ!おはようございまーす!|2014/4/9のアップデートで追加&br()(なぁんですかぁ!提督ぅ!はこのセリフと入れ替えになったので聞きたい場合は改造前の島風で聞ける)| |秘書クリック会話②|おうっ!?|あざらしっぽいって噂。&br()おっとかおうっとかぉ゛うっとなどと何故か人によって聞こえ方がまるで異なる。| |秘書クリック会話③|かけっこしたいんですかぁ?負けませんよぉ!|その性能を引き出すために島風型指揮専用の軽巡まで計画されるほど| |戦績表示時|提督宛てに連絡がきてるみたいよ|| |編成選択時|島風、出撃しまーす!|| |装備時①|もっともっと速くなってもいいの?|| |装備時②|これ以上速くなっても知らないから!|| |装備時③|おっそーい!|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |ドック入り|タービン周りも整備したーい!|島風型のタービンは複雑で量産できず、本格的修理は行われなかった| |ドック入り(重傷)|連装砲ちゃんも修理してあげなきゃ|島風は[[12.7cm連装砲]]D型を3基搭載していた。| |建造時|また私より遅い船が出来たみたい|島風と同じ速さの艦、妹達の建造計画は全てキャンセルされている| |艦隊帰投時|艦隊がやっと帰投したよ。遅いよねえ?|| |出撃時|連装砲ちゃん。一緒に行くよor編成選択時と同じ|| |戦闘開始時|私には誰も追いつけないよー|最速の船| |攻撃時|島風、砲雷撃戦入りますor島風、出撃しまーす|| |夜戦開始時|だからー島風からは逃げられないって(だから、島風には誰も追いつけないって!:改?)|| |夜戦攻撃時|えへへ、あなたって遅いのね!|| |MVP時|私が一番?やっぱり?そうよね!だって速いもん!|| |被弾小破①|ひゃん!?|| |被弾小破②|やーめーてーよーっ!|| |被弾カットイン|はぁ~…この私がやられるなんてー…|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):速いだけじゃ…だめなのね…|COLOR(white):米軍機の爆撃に対し回避行動をとるも敢えなく沈没| |放置時|んぅ…あ…今連装砲ちゃんとお話したの…うん、だって退屈なんだもん!|2014/4/9のアップデートで追加| ---- *同型艦 なし ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=島風/コメント) ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告

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