大和

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#image(No131.png) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV ---- 竹達彩奈 ---- *史実情報 ---- #image(yamato01.jpg) 1941年10月30日 公試中の「[[大和]]」。本艦の写真では最も有名なものである。 現代において、日本海軍を代表すると言っても過言ではない、日本人なら誰もが知っている軍艦。 それが戦艦[[大和]]である。 <建造背景> 元々は老朽化著しく、戦力面でもやや劣る「[[金剛]]」型の代替艦として計画された。 建造計画自体は1920年代後半にも立っていたが、現実的なものとなったのはロンドン軍縮条約失効後のことである。 日本海軍は、量的優位に立つ米海軍に対し、質的優位に立つことを第一としていた。 その為、軍縮条約破棄後に建造される新型戦艦に、前代未聞の46㎝(18インチ)砲の搭載を決定した。 決定の背景には、米軍の造船所が東海岸に集中しており、太平洋に向かう為パナマ運河を通過せざるを得ないという事情があった。 パナマ運河の幅が最大33m程度であるのに対して、幅33mの艦体では46㎝砲は搭載できないと考えたからである。 <設計> 軍令部は新型戦艦の性能に、46㎝砲8門以上、速力30ノット以上を要求。 設計陣は連装砲塔と三連装砲塔の混載案や、英国ネルソン級戦艦のような主砲塔前方集中配置型など、多数の案を検討。 最終的に三連装砲塔3基に落ち着き、速力は艦体の大型化を避けるべく27ノットに抑えることになった。 防御面は徹底した集中防御方式とし、新型の装甲板を採用された。 機関は蒸気タービンとディーゼルの混載が予定されたが、当時のディーゼルは未成熟で実際に搭載した艦艇でも不調続きだったため、蒸気タービンのみとなった。 外見も従来の櫓型檣楼を改め、塔型の近代的艦橋を採用。マストも後方へと傾斜した独特の形のものが採用された。 上部構造物は、集中防御の都合から艦中央に纏めて配置された。 この他、球状艦首や毒ガス対策の空調設備など、多数の新技術が投入された。 <建造~竣工> 建造予算は1936年度の第70回議会へ「新型戦艦"A140-F5"」として計上された。 予算から艦の規模を推測されないよう、架空の駆逐艦3隻・潜水艦2隻を同時計上する偽装が行われており、すでに「国家機密」として扱われていた。 その後、計画変更(搭載機関の変更)に伴い"A140-F6"として予算が計上された際は、同時期に改装中だった[[比叡]]・[[飛龍]]の予算に大和の予算を紛れ込ませている。 一番艦となる「[[大和]]」は、1937年11月4日、呉工廠で起工した。 かつて「[[赤城]]」や「[[長門]]」を建造した呉工廠の乾ドックは、「[[大和]]」建造の為に拡張工事が施された。 「[[大和]]」の建造は「最重要の国家機密」であり、海軍は未曽有の大型艦建造を隠すために、様々な知恵を巡らせた。 まず、ドックには屋根が設けられ周囲はトタンで囲まれた。さらにクレーンからは日本中から集めたという棕櫚縄をたらし、軍港の周囲や鉄道沿線に板堀を張り巡らしたという。 建造面では、ブロック工法や徹底した工数管理法が用いられ、工期の短縮に大いに貢献した。また、三菱電気や東芝、ニコンなど多くの企業の製品や技術が、「[[大和]]」建造に用いられた。 1940年8月8日、「[[大和]]」は進水式を迎えた。この日、呉市民は大規模な防空・市街戦演習に駆り出され、市内港内を問わずあらゆる交通が遮断された。 そんな中、「[[大和]]」は軍楽隊の演奏も、港内の船舶による満艦飾の出迎えもなしに、ひっそりと命名され進水した。 艦名は奈良県の旧国名に由来するものだが、日本の古称にも係るものとなっており、期待の度合いが伺える。 その後も工事は順調に進み、公試を終えた「[[大和]]」は1941年12月16日に竣工を迎えた。太平洋戦争開戦の翌週のことだった。 なお、「[[大和]]」の建造が時代錯誤であったという主張もあるが、条約明けの各国は一斉に新型戦艦の建造を始めており、一概にそうだとは言えない((開戦時点で殆どできあがってきた大和・[[武蔵]]を解体する方が余計時間と資源を浪費することや、列強の中で一番先に戦艦の建造を止めた(完成は[[武蔵]]、建造は[[信濃]]が最後)ことがこの理由としてあげられる))。 <戦歴> 1942年、「[[大和]]」は「[[長門]]」より聯合艦隊旗艦を継承した。 ミッドウェー作戦が発動されると、5月29日に「[[大和]]」は主力部隊を率い柱島を出撃した。作戦は機動部隊の壊滅で中止となり、「[[大和]]」は1発も撃たずに反転する。 8月になると、南方ガダルカナルを巡る攻防が始まり、「[[大和]]」は作戦指揮の為南洋トラック諸島へと進出した。 だが、「[[大和]]」が前線に出ることはなかった。「[[大和]]」型戦艦を決戦兵器とする海軍の運用方針と、行動に多大な燃料を必要とすることが原因だった。 その為、「[[大和]]」は&bold(){温存}され、日々その巨体を泊地に浮かべ続けていた。 最新鋭艦なだけはあり、冷房が備えられ寝床はベッド。食事も素晴らしく、聯合艦隊旗艦なので昼食時には軍楽隊が長官の為生演奏をする。 そんな様を、他艦の将兵たちは羨望と嫉妬を込めて、満洲の高級ホテル「ヤマトホテル」にちなんでか「「[[大和]]」ホテル」と揶揄した。 とはいえ「[[大和]]」もただ惰眠を貪っていたわけではない。1942年暮れから艦長を務めた松田千秋大佐は、各艦の士官を集めて砲術講義などを盛んに行い、「「[[大和]]」大学」と呼ばれたという。 1943年2月11日、「[[大和]]」は[[武蔵]]に旗艦の座を移譲。5月には呉に戻り、舷側の副砲塔2基の撤去と対空兵装の強化、電探装備の工事を行う。 12月には駆逐艦と共に、日本から兵員を輸送する任務に就いている。 1944年には、差し迫った戦況から遂に「[[大和]]」も戦場へと向かう。 同年6月のマリアナ沖海戦では、空母の護衛部隊として行動。特に損傷もなく、米機群に向けて主砲三式弾を発砲。敵に向けての初めての砲撃である。 続く10月には、レイテ沖海戦に第二遊撃艦隊の1隻として参戦。旗艦「[[愛宕]]」沈没後には、艦隊旗艦となった。 道中のシブヤン海で艦体は米艦載機の攻撃を受け、被害を一身に受けた「[[武蔵]]」が沈没する。「[[大和]]」も直撃弾を受けたが、強靭な装甲で弾き返している。 #image(yamato2.jpg) 翌日、艦隊はサマール島沖で護衛空母艦隊と遭遇。距離3万2千メートルで、46㎝主砲が火を噴いた。「[[大和]]」の主砲が初めて、そして唯一敵艦に向けられた瞬間だった。 「[[大和]]」の発砲を皮切りに、重巡部隊が突撃を開始。「[[大和]]」も「[[長門]]」と共に「[[金剛]]」「[[榛名]]」に続いて突撃する。 「[[大和]]」は初弾から挟叉を叩き出すも、思うような戦果を得られなかった。さらに魚雷を回避した際運悪く両舷を挟まれ、十数キロを同航。敵艦隊から離れてしまい戦果を逃した。 長年「[[大和]]」のはこの戦いで護衛空母ガンビア・ベイを撃沈したとされていたが、近年では「[[金剛]]」の戦果であることが解っている。 レイテ沖海戦から帰還後、「[[大和]]」は呉に入港。レイテの大敗で、日本海軍には艦隊行動に足る艦船も、燃料もなくなってしまった。 明けて1945年3月、「[[大和]]」は呉空襲を避けて徳山沖に移動。3月28日は次の作戦に向け、第二水雷戦隊を指揮下とする第二艦隊を編成した。 4月になると「[[大和]]」の沖縄行きが決まる。沖縄の海岸に座礁し、上陸した米軍を主砲で撃滅するのが目的とされた。しかし、実際は海軍のメンツを保つための、海上特攻作戦だった。 4月5日。聯合艦隊参謀長・草加龍之介中将は「[[大和]]」を訪れると、集まった第二艦隊司令部、各艦艦長に特攻作戦の実施を伝える。 話を聞いた第二艦隊は大いに反対するも、「一億総特攻の魁となってほしい」という言葉に、遂に納得した。 4月6日。各艦は残り僅かな重油をタンク満タンに給油。「『海上護衛』掛け軸」で名前が出た大井篤が「水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎」と言ったのはこの時である((海上護衛総隊は割り当てを大カットされた上に徳山海軍燃料廠の員数外(帳簿外)のタンクの底まで浚って入れてしまい、大和が本土~沖縄間を悠々往復できる燃料を手に入れた代償として護衛総隊の燃料が殆どなくなった。))。 同日午後3時20分、「[[大和]]」に率いられ、軽巡洋艦[[矢矧]]、駆逐艦[[雪風]]、[[磯風]]、[[浜風]]、[[霞]]、[[初霜]]、[[朝霜]]、[[冬月]]、[[涼月]]は徳山沖を出港した。 この僅か10隻からなる艦隊が、日本海軍最後の水上部隊となった。 米軍は偵察で「[[大和]]」の出撃を把握。司令官スプルーアンス中将は戦艦部隊での迎撃を考えるも、最終的に空母部隊での攻撃を決めた。 もしもスプルーアンス中将が戦艦部隊を送り込んでいたら、「[[大和]]」の評価は違ったものになっていたかもしれない。 #image(yamato3.jpg) 近年発見された、出撃直前の「[[大和]]」を写した一葉。おそらく唯一のカラー写真。 4月7日12時34分。米艦載機による反復攻撃が始まる。米軍は昨年の「[[武蔵]]」攻撃で得られた戦訓を元に、「[[大和]]」に対し周到な攻撃を仕掛ける。 「[[大和]]」以下、第二艦隊の対空兵装が唸りを挙げるも、敵航空機を防ぐことは出来ず、「[[大和]]」は集中攻撃を受ける。 この日は曇天で雲が低く、主砲による三式弾射撃は叶わず、他の対空兵装にとっても不利な状況だった。 米軍は爆撃と雷撃を同時に仕掛けており、「[[大和]]」の回避行動は困難を極めた。魚雷が左舷に命中したことで、米軍は「[[大和]]」の左舷側を集中攻撃。 爆弾や魚雷だけなく、機銃掃射やロケット弾までもが「[[大和]]」に向けて放たれる。「[[大和]]」は傷つきながらも戦い続けた。 #image(yamato4.jpg) 応急注排水装置と水密防御区画が最大機能するも、左舷に計9本の魚雷を受けたことで限界を迎え、遂に航行不能となる。 午後2時23分、「[[大和]]」は左に横転しながら沈没した後、弾火薬庫が爆発。巨大な黒煙を吹き上げ、史上最大最強の戦艦は海中へと没した。 #image(yamato5.jpg) 「[[大和]]」沈没の瞬間。キノコ雲は高度6000mの高さに達した。 <戦後> 戦中、海軍は「[[大和]]」型の存在を徹底的に秘匿したため、国民は「[[大和]]」姉妹のことを全く知らされていなかった((「新鋭艦がある」とした報道や、「巨大艦の噂話」はあったが、大和型と明示されたものはなかった。))。 海軍の情報秘匿は功を奏し、米軍は戦後に主砲が46㎝と知って大いに驚いたという。更に、敗戦時大和に関する資料は殆どが焼却処分された。 とはいえ、この件は関係者の多くが行き過ぎた機密保持だったとも述懐している。 戦後、海軍省が消滅したことで情報開示が進んで存在が知れると、「[[大和]]」は一躍人気物となっていく。 細かいことはさて置き、「[[大和]]」の生涯は日本人好みの「滅びの美学」であり、様々なメディアで取り上げられていったのである。 元乗員吉田満氏の著作『戦艦「[[大和]]」ノ最期』や、1960年代の戦記ブーム、1973年の「宇宙戦艦ヤマト」の爆発的ヒットにより、「[[大和]]」の知名度は飛躍的に上昇した。 こうしたブームに後押しされる形で、海底調査が一大プロジェクトとして数回行われており、沈没場所や現状も広く知られるようになった。 また一方で、「[[大和]]」の建造時に培われた技術やノウハウは、戦後の日本が造船大国として復活するのに大いに貢献している。 今日でも「[[大和]]」の人気は衰えることはなく、数々の小説、実写作品やアニメや漫画などに、時には姿形を変えて登場し続けている。 そして、大和が建造された広島県呉市には「呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム」という博物館が建築され、往時の姿を伝えている。 <逸話> 大きさに関するものが多い ・大和を捉えた米軍のレーダー手が、島だと勘違いした。 ・[[長門]]と航行していたところ、米軍は「戦艦1重巡1」と誤認した。 ・上記輸送作戦の際、潜水艦の雷撃を受けるも誰一人として気付かず、艦が傾斜して初めて被雷に気付いた。 ・艦内の構造も複雑であり、迷子が出て捜索隊が探しに行ったことがある。 ・初任者を対象に艦内20か所を回るスタンプラリーをしたところ、午前8時開始で早い者でも昼、遅い者は午後9時までかかった。 ・艦内伝令が移動に自転車を使っていたと証言した人もいる。 ・日米両軍の将兵が、口を揃えて「美しい船だった」と回想している。 ・かの大井篤は、戦後元乗員らの集まる会で散々に大和型戦艦の悪口を言ったという。 ・上記のように大和は秘匿艦だったが、最後の艦長となった有賀幸作大佐は喜びのあまり、息子に「大和艦長 有賀幸作」と堂々と艦名を記載した手紙を出した。 ・実は大和の名を持つ艦としては2代目で、海軍黎明期に建造されたスループ艦が初代大和。姉妹艦に武蔵もおり、こちらは終戦まで生き残った。 ・艦内神社は日本で最も由緒ある神社の一つである、奈良県天理市の大和(おおやまと)神社の分祀。大和神社には現在坊ノ岬沖海戦戦死者の慰霊碑が建立されている。  同社の祭神の一柱に(諸説あるが)天照大御神がおり、艦娘の大和は天照大御神をリスペクトしているとの絵師(しずまよしのり氏)からの言明があった。 ---- *台詞一覧 ---- |状況 |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|大和型戦艦、一番艦、大和。推して参ります!|| |秘書クリック会話①|提督、なんでしょう?|| |秘書クリック会話②|ホテルですって?ち、違います!|あまりに出撃しない事と、他艦にはない快適装備を持つことから「大和ホテル」と揶揄された| |秘書クリック会話③|あのー? そんなに気になります? やっぱり副砲がちょっと多いの?|竣工時3連4基12門をもっていた「大和」の副砲は、最終時3連2基6門に減り、高角砲に置き換わった| |戦績表示時|大本営からの通信ですか?|大本営は戦時に設置される、帝国軍の最高司令部| |編成選択時|戦艦大和、連合艦隊、出撃です!|「大和」は連合艦隊旗艦を努め、1943年2月に「武蔵」にその座を譲った| |装備時①|改造ですね?ありがとうございます!|| |装備時②|あ、ありがとうございます!|| |装備時③|行くわ!|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |補給時|ありがたく頂きます。|| |ドック入り|ちょっとお風呂に行ってきます。|| |ドック入り(重傷)|イッタッタ~ ごめんなさい、私がここまでやられるなんて~|COLOR(white):いやいや、シャレにならないから!| |建造時|新造艦の建造が完了したようです。|| |艦隊帰投時|お疲れ様です。艦隊、帰投しました。|| |出撃時|戦艦大和、推して参ります。|| |戦闘開始時|さぁ、やるわ!砲雷撃戦、用意!|| |攻撃時|第一・第二主砲、斉射、始め!|| |夜戦開始時|戦艦大和、夜戦を敢行します!|| |夜戦攻撃時|夾叉(きょうさ)か・・・うん、次は直撃させます。|夾叉とは、自分の放った砲弾が敵艦の手前と奥の両方に着弾すること&br()夾叉の状態は散布界(撃った砲弾が散らばる範囲)の中に捉えたことを意味する。この状態で撃ち続ければいつか直撃する。| |MVP時|大和が一番ですか。少し晴れがましいですね。次の海戦もお任せ下さいね。|史実では上述したとおり機密保持のせいで常に「日陰者」だった。それを念頭に置いた台詞か。| |被弾小破①|そ、それで直撃のつもりなの?|シブヤン海海戦では一番砲塔に直撃弾を受けるも被害なし。装甲の分厚さを物語っている| |被弾小破②|傾斜復元しないと・・・注水を急いで!|注水:被弾して水が入ってきた分、同量の水を反対側に入れればバランスが取れる、という発想のダメージコントロール| |被弾カットイン|こ、こんなところで・・・大和は・・・沈みません!|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):また…逝くのね…総員…最上甲板…武蔵…信濃…あとは頼みます…|COLOR(white):史実では残念ながら妹達は先に沈んでいる。| |時間|台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |00:00|マルマルマルマル。深夜ですね。|| |01:00|マルヒトマルマル。提督、そろそろお休みにならないと。|| |02:00|提督?まだ寝なくて大丈夫ですか?現在時刻マルフタマルマルです。|| |03:00|マルサンマルマル。そろそろ流石にお疲れじゃないですか?|| |04:00|現在時刻マルヨンマルマルです。提督、そろそろ朝になっちゃいます。|| |05:00|提督、マルゴーマルマルです。空が白み始めてきちゃいましたね。|| |06:00|朝です。マルロクマルマル。提督、朝は本当に御早いですね。|| |07:00|マルナナマルマル、朝食の時間。大和ホテル自慢のコンソメ御飲みになります?|大和乗組の士官食堂用調理員は帝国ホテルや日本郵船の客船出身など腕利きの軍属が優先配置。&br()山本五十六は艦上生活で太り、ガダルカナルから帰ってきた辻政信(陸軍)は皮肉を漏らすほど。| |08:00|現在時刻マルハチマルマルです。連合艦隊旗艦としてそろそろ動きますね。|帝国海軍の始業は午前8時。| |09:00|マルキュウマルマルです。提督、今日の作戦行動はどうされますか?|| |10:00|提督、他の艦隊の運用はどうされます?時刻は今、ヒトマルマルマルです。|| |11:00|ヒトヒトマルマル。そろそろ昼食の準備をしないと…。何がいいですか?|| |12:00|ヒトフタマルマル ランチタイムに大和ホテル自慢の…あぁ…ホテルじゃないです|COLOR(white):朝7時にホテルと認めたのは忘れた模様。| |13:00|ヒトサンマルマル、です。食後は少し眠くなりますね。|| |14:00|ヒトヨンマルマルです。ふぁ~…はっ!あ、寝てませんよ!?|| |15:00|ヒトゴーマルマル。提督、ラムネでも飲まれますか?|帝国海軍では巡洋艦以上の艦艇に、消火装置の炭酸ガスを応用したラムネ製造機を積んでいた&br()酒保での価格は今の感覚で1本100円| |16:00|ヒトロクマルマル。そろそろ夕暮れ時ですね。|| |17:00|ヒトナナマルマル、提督、そろそろ日が暮れて来ました。|| |18:00|現在時刻ヒトハチマルマルです。今日は半舷上陸にしちゃいます?|半舷上陸:乗員を持ち場で右舷と左舷に分け、どちらか片方を休みとして上陸させ、残った側が当直勤務。| |19:00|ヒトキュウマルマル。艦隊執務はここまでにして、お夕食にしましょう。|帝国海軍の決まり上の終業は18時。毎日残業の模様。| |20:00|フタマルマルマルです。ディナーはフルコースですよー、なんたって大和ホテルの…|COLOR(white):再びホテルであると認める。ホテルなのかそうじゃないのかはっきりしない娘である。| |21:00|フタヒトマルマル。提督、大和の居住性、いかがでしょうか?|兵卒に到るまでベッド・個人ロッカーがあるほど。帝国海軍では異例中の異例。| |22:00|現在時刻、フタフタマルマルです。そろそろお風呂タイムかな?|| |23:00|時刻はフタサンマルマルです。提督、本日も一日、本当にお疲れ様でした。|| |放置時|ん……あ、提督ごめんなさい。主砲ちょっと邪魔ですか?|主砲の大きさは世界最大。砲塔全体の大きさはお台場にあったガンダムと大体同じ(18m)である。| ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=コメント/大和) ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告
#image(No131.png) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV ---- 竹達彩奈 ---- *Illustrator ---- しずまよしのり ---- *史実情報 ---- #image(yamato01.jpg) 1941年10月30日 公試中の「[[大和]]」。本艦の写真では最も有名なものである。 現代において、日本海軍を代表すると言っても過言ではない、日本人なら誰もが知っている軍艦。 それが戦艦[[大和]]である。 <建造背景> 元々は老朽化著しく、戦力面でもやや劣る「[[金剛]]」型の代替艦として計画された。 建造計画自体は1920年代後半にも立っていたが、現実的なものとなったのはロンドン軍縮条約失効後のことである。 日本海軍は、量的優位に立つ米海軍に対し、質的優位に立つことを第一としていた。 その為、軍縮条約破棄後に建造される新型戦艦に、前代未聞の46㎝(18インチ)砲の搭載を決定した。 決定の背景には、米軍の造船所が東海岸に集中しており、太平洋に向かう為パナマ運河を通過せざるを得ないという事情があった。 パナマ運河の幅が最大33m程度であるのに対して、幅33mの艦体では46㎝砲は搭載できないと考えたからである。 <設計> 軍令部は新型戦艦の性能に、46㎝砲8門以上、速力30ノット以上を要求。 設計陣は連装砲塔と三連装砲塔の混載案や、英国ネルソン級戦艦のような主砲塔前方集中配置型など、多数の案を検討。 最終的に三連装砲塔3基に落ち着き、速力は艦体の大型化を避けるべく27ノットに抑えることになった。 防御面は徹底した集中防御方式とし、新型の装甲板を採用された。 機関は蒸気タービンとディーゼルの混載が予定されたが、当時のディーゼルは未成熟で実際に搭載した艦艇でも不調続きだったため、蒸気タービンのみとなった。 外見も従来の櫓型檣楼を改め、塔型の近代的艦橋を採用。マストも後方へと傾斜した独特の形のものが採用された。 上部構造物は、集中防御の都合から艦中央に纏めて配置された。 この他、球状艦首や毒ガス対策の空調設備など、多数の新技術が投入された。 <建造~竣工> 建造予算は1936年度の第70回議会へ「新型戦艦"A140-F5"」として計上された。 予算から艦の規模を推測されないよう、架空の駆逐艦3隻・潜水艦2隻を同時計上する偽装が行われており、すでに「国家機密」として扱われていた。 その後、計画変更(搭載機関の変更)に伴い"A140-F6"として予算が計上された際は、同時期に改装中だった[[比叡]]・[[飛龍]]の予算に大和の予算を紛れ込ませている。 一番艦となる「[[大和]]」は、1937年11月4日、呉工廠で起工した。 かつて「[[赤城]]」や「[[長門]]」を建造した呉工廠の乾ドックは、「[[大和]]」建造の為に拡張工事が施された。 「[[大和]]」の建造は「最重要の国家機密」であり、海軍は未曽有の大型艦建造を隠すために、様々な知恵を巡らせた。 まず、ドックには屋根が設けられ周囲はトタンで囲まれた。さらにクレーンからは日本中から集めたという棕櫚縄をたらし、軍港の周囲や鉄道沿線に板堀を張り巡らしたという。 建造面では、ブロック工法や徹底した工数管理法が用いられ、工期の短縮に大いに貢献した。また、三菱電気や東芝、ニコンなど多くの企業の製品や技術が、「[[大和]]」建造に用いられた。 1940年8月8日、「[[大和]]」は進水式を迎えた。この日、呉市民は大規模な防空・市街戦演習に駆り出され、市内港内を問わずあらゆる交通が遮断された。 そんな中、「[[大和]]」は軍楽隊の演奏も、港内の船舶による満艦飾の出迎えもなしに、ひっそりと命名され進水した。 艦名は奈良県の旧国名に由来するものだが、日本の古称にも係るものとなっており、期待の度合いが伺える。 その後も工事は順調に進み、公試を終えた「[[大和]]」は1941年12月16日に竣工を迎えた。太平洋戦争開戦の翌週のことだった。 なお、「[[大和]]」の建造が時代錯誤であったという主張もあるが、条約明けの各国は一斉に新型戦艦の建造を始めており、一概にそうだとは言えない((開戦時点で殆どできあがってきた大和・[[武蔵]]を解体する方が余計時間と資源を浪費することや、列強の中で一番先に戦艦の建造を止めた(完成は[[武蔵]]、建造は[[信濃]]が最後)ことがこの理由としてあげられる))。 <戦歴> 1942年、「[[大和]]」は「[[長門]]」より聯合艦隊旗艦を継承した。 ミッドウェー作戦が発動されると、5月29日に「[[大和]]」は主力部隊を率い柱島を出撃した。作戦は機動部隊の壊滅で中止となり、「[[大和]]」は1発も撃たずに反転する。 8月になると、南方ガダルカナルを巡る攻防が始まり、「[[大和]]」は作戦指揮の為南洋トラック諸島へと進出した。 だが、「[[大和]]」が前線に出ることはなかった。「[[大和]]」型戦艦を決戦兵器とする海軍の運用方針と、行動に多大な燃料を必要とすることが原因だった。 その為、「[[大和]]」は&bold(){温存}され、日々その巨体を泊地に浮かべ続けていた。 最新鋭艦なだけはあり、冷房が備えられ寝床はベッド。食事も素晴らしく、聯合艦隊旗艦なので昼食時には軍楽隊が長官の為生演奏をする。 そんな様を、他艦の将兵たちは羨望と嫉妬を込めて、満洲の高級ホテル「ヤマトホテル」にちなんでか「「[[大和]]」ホテル」と揶揄した。 とはいえ「[[大和]]」もただ惰眠を貪っていたわけではない。1942年暮れから艦長を務めた松田千秋大佐は、各艦の士官を集めて砲術講義などを盛んに行い、「「[[大和]]」大学」と呼ばれたという。 1943年2月11日、「[[大和]]」は[[武蔵]]に旗艦の座を移譲。5月には呉に戻り、舷側の副砲塔2基の撤去と対空兵装の強化、電探装備の工事を行う。 12月には駆逐艦と共に、日本から兵員を輸送する任務に就いている。 1944年には、差し迫った戦況から遂に「[[大和]]」も戦場へと向かう。 同年6月のマリアナ沖海戦では、空母の護衛部隊として行動。特に損傷もなく、米機群に向けて主砲三式弾を発砲。敵に向けての初めての砲撃である。 続く10月には、レイテ沖海戦に第二遊撃艦隊の1隻として参戦。旗艦「[[愛宕]]」沈没後には、艦隊旗艦となった。 道中のシブヤン海で艦体は米艦載機の攻撃を受け、被害を一身に受けた「[[武蔵]]」が沈没する。「[[大和]]」も直撃弾を受けたが、強靭な装甲で弾き返している。 #image(yamato2.jpg) 翌日、艦隊はサマール島沖で護衛空母艦隊と遭遇。距離3万2千メートルで、46㎝主砲が火を噴いた。「[[大和]]」の主砲が初めて、そして唯一敵艦に向けられた瞬間だった。 「[[大和]]」の発砲を皮切りに、重巡部隊が突撃を開始。「[[大和]]」も「[[長門]]」と共に「[[金剛]]」「[[榛名]]」に続いて突撃する。 「[[大和]]」は初弾から挟叉を叩き出すも、思うような戦果を得られなかった。さらに魚雷を回避した際運悪く両舷を挟まれ、十数キロを同航。敵艦隊から離れてしまい戦果を逃した。 長年「[[大和]]」のはこの戦いで護衛空母ガンビア・ベイを撃沈したとされていたが、近年では「[[金剛]]」の戦果であることが解っている。 レイテ沖海戦から帰還後、「[[大和]]」は呉に入港。レイテの大敗で、日本海軍には艦隊行動に足る艦船も、燃料もなくなってしまった。 明けて1945年3月、「[[大和]]」は呉空襲を避けて徳山沖に移動。3月28日は次の作戦に向け、第二水雷戦隊を指揮下とする第二艦隊を編成した。 4月になると「[[大和]]」の沖縄行きが決まる。沖縄の海岸に座礁し、上陸した米軍を主砲で撃滅するのが目的とされた。しかし、実際は海軍のメンツを保つための、海上特攻作戦だった。 4月5日。聯合艦隊参謀長・草加龍之介中将は「[[大和]]」を訪れると、集まった第二艦隊司令部、各艦艦長に特攻作戦の実施を伝える。 話を聞いた第二艦隊は大いに反対するも、「一億総特攻の魁となってほしい」という言葉に、遂に納得した。 4月6日。各艦は残り僅かな重油をタンク満タンに給油。「『海上護衛』掛け軸」で名前が出た大井篤が「水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎」と言ったのはこの時である((海上護衛総隊は割り当てを大カットされた上に徳山海軍燃料廠の員数外(帳簿外)のタンクの底まで浚って入れてしまい、大和が本土~沖縄間を悠々往復できる燃料を手に入れた代償として護衛総隊の燃料が殆どなくなった。))。 同日午後3時20分、「[[大和]]」に率いられ、軽巡洋艦[[矢矧]]、駆逐艦[[雪風]]、[[磯風]]、[[浜風]]、[[霞]]、[[初霜]]、[[朝霜]]、[[冬月]]、[[涼月]]は徳山沖を出港した。 この僅か10隻からなる艦隊が、日本海軍最後の水上部隊となった。 米軍は偵察で「[[大和]]」の出撃を把握。司令官スプルーアンス中将は戦艦部隊での迎撃を考えるも、最終的に空母部隊での攻撃を決めた。 もしもスプルーアンス中将が戦艦部隊を送り込んでいたら、「[[大和]]」の評価は違ったものになっていたかもしれない。 #image(yamato3.jpg) 近年発見された、出撃直前の「[[大和]]」を写した一葉。おそらく唯一のカラー写真。 4月7日12時34分。米艦載機による反復攻撃が始まる。米軍は昨年の「[[武蔵]]」攻撃で得られた戦訓を元に、「[[大和]]」に対し周到な攻撃を仕掛ける。 「[[大和]]」以下、第二艦隊の対空兵装が唸りを挙げるも、敵航空機を防ぐことは出来ず、「[[大和]]」は集中攻撃を受ける。 この日は曇天で雲が低く、主砲による三式弾射撃は叶わず、他の対空兵装にとっても不利な状況だった。 米軍は爆撃と雷撃を同時に仕掛けており、「[[大和]]」の回避行動は困難を極めた。魚雷が左舷に命中したことで、米軍は「[[大和]]」の左舷側を集中攻撃。 爆弾や魚雷だけなく、機銃掃射やロケット弾までもが「[[大和]]」に向けて放たれる。「[[大和]]」は傷つきながらも戦い続けた。 #image(yamato4.jpg) 応急注排水装置と水密防御区画が最大機能するも、左舷に計9本の魚雷を受けたことで限界を迎え、遂に航行不能となる。 午後2時23分、「[[大和]]」は左に横転しながら沈没した後、弾火薬庫が爆発。巨大な黒煙を吹き上げ、史上最大最強の戦艦は海中へと没した。 #image(yamato5.jpg) 「[[大和]]」沈没の瞬間。キノコ雲は高度6000mの高さに達した。 <戦後> 戦中、海軍は「[[大和]]」型の存在を徹底的に秘匿したため、国民は「[[大和]]」姉妹のことを全く知らされていなかった((「新鋭艦がある」とした報道や、「巨大艦の噂話」はあったが、大和型と明示されたものはなかった。))。 海軍の情報秘匿は功を奏し、米軍は戦後に主砲が46㎝と知って大いに驚いたという。更に、敗戦時大和に関する資料は殆どが焼却処分された。 とはいえ、この件は関係者の多くが行き過ぎた機密保持だったとも述懐している。 戦後、海軍省が消滅したことで情報開示が進んで存在が知れると、「[[大和]]」は一躍人気物となっていく。 細かいことはさて置き、「[[大和]]」の生涯は日本人好みの「滅びの美学」であり、様々なメディアで取り上げられていったのである。 元乗員吉田満氏の著作『戦艦「[[大和]]」ノ最期』や、1960年代の戦記ブーム、1973年の「宇宙戦艦ヤマト」の爆発的ヒットにより、「[[大和]]」の知名度は飛躍的に上昇した。 こうしたブームに後押しされる形で、海底調査が一大プロジェクトとして数回行われており、沈没場所や現状も広く知られるようになった。 また一方で、「[[大和]]」の建造時に培われた技術やノウハウは、戦後の日本が造船大国として復活するのに大いに貢献している。 今日でも「[[大和]]」の人気は衰えることはなく、数々の小説、実写作品やアニメや漫画などに、時には姿形を変えて登場し続けている。 そして、大和が建造された広島県呉市には「呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム」という博物館が建築され、往時の姿を伝えている。 <逸話> 大きさに関するものが多い ・大和を捉えた米軍のレーダー手が、島だと勘違いした。 ・[[長門]]と航行していたところ、米軍は「戦艦1重巡1」と誤認した。 ・上記輸送作戦の際、潜水艦の雷撃を受けるも誰一人として気付かず、艦が傾斜して初めて被雷に気付いた。 ・艦内の構造も複雑であり、迷子が出て捜索隊が探しに行ったことがある。 ・初任者を対象に艦内20か所を回るスタンプラリーをしたところ、午前8時開始で早い者でも昼、遅い者は午後9時までかかった。 ・艦内伝令が移動に自転車を使っていたと証言した人もいる。 ・日米両軍の将兵が、口を揃えて「美しい船だった」と回想している。 ・かの大井篤は、戦後元乗員らの集まる会で散々に大和型戦艦の悪口を言ったという。 ・上記のように大和は秘匿艦だったが、最後の艦長となった有賀幸作大佐は喜びのあまり、息子に「大和艦長 有賀幸作」と堂々と艦名を記載した手紙を出した。 ・実は大和の名を持つ艦としては2代目で、海軍黎明期に建造されたスループ艦が初代大和。姉妹艦に武蔵もおり、こちらは終戦まで生き残った。 ・艦内神社は日本で最も由緒ある神社の一つである、奈良県天理市の大和(おおやまと)神社の分祀。大和神社には現在坊ノ岬沖海戦戦死者の慰霊碑が建立されている。  同社の祭神の一柱に(諸説あるが)天照大御神がおり、艦娘の大和は天照大御神をリスペクトしているとの絵師(しずまよしのり氏)からの言明があった。 ---- *台詞一覧 ---- &table_color(table1,#ddd){} |~状況 |~台詞 |~関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|大和型戦艦、一番艦、大和。推して参ります!|| |秘書クリック会話①|提督、なんでしょう?|| |秘書クリック会話②|ホテルですって?ち、違います!|あまりに出撃しない事と、他艦にはない快適装備を持つことから「大和ホテル」と揶揄された| |秘書クリック会話③|あのー? そんなに気になります? やっぱり副砲がちょっと多いの?|竣工時3連4基12門をもっていた「大和」の副砲は、最終時3連2基6門に減り、高角砲に置き換わった| |戦績表示時|大本営からの通信ですか?|大本営は戦時に設置される、帝国軍の最高司令部| |編成選択時|戦艦大和、連合艦隊、出撃です!|「大和」は連合艦隊旗艦を努め、1943年2月に「武蔵」にその座を譲った| |装備時①|改造ですね?ありがとうございます!|| |装備時②|あ、ありがとうございます!|| |装備時③|行くわ!|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |補給時|ありがたく頂きます。|| |ドック入り|ちょっとお風呂に行ってきます。|| |ドック入り(重傷)|イッタッタ~ ごめんなさい、私がここまでやられるなんて~|COLOR(white):いやいや、シャレにならないから!| |建造時|新造艦の建造が完了したようです。|| |艦隊帰投時|お疲れ様です。艦隊、帰投しました。|| |出撃時|戦艦大和、推して参ります。|| |戦闘開始時|さぁ、やるわ!砲雷撃戦、用意!|| |攻撃時|第一・第二主砲、斉射、始め!|| |夜戦開始時|戦艦大和、夜戦を敢行します!|| |夜戦攻撃時|夾叉(きょうさ)か・・・うん、次は直撃させます。|夾叉とは、自分の放った砲弾が敵艦の手前と奥の両方に着弾すること&br()夾叉の状態は散布界(撃った砲弾が散らばる範囲)の中に捉えたことを意味する。この状態で撃ち続ければいつか直撃する。| |MVP時|大和が一番ですか。少し晴れがましいですね。次の海戦もお任せ下さいね。|史実では上述したとおり機密保持のせいで常に「日陰者」だった。それを念頭に置いた台詞か。| |被弾小破①|そ、それで直撃のつもりなの?|シブヤン海海戦では一番砲塔に直撃弾を受けるも被害なし。装甲の分厚さを物語っている| |被弾小破②|傾斜復元しないと・・・注水を急いで!|注水:被弾して水が入ってきた分、同量の水を反対側に入れればバランスが取れる、という発想のダメージコントロール| |被弾カットイン|こ、こんなところで・・・大和は・・・沈みません!|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):また…逝くのね…総員…最上甲板…武蔵…信濃…あとは頼みます…|COLOR(white):史実では残念ながら妹達は先に沈んでいる。| ---- *時報 ---- &table_color(table2,#ddd){} |~時間|~台詞|~関連する史実や元ネタ、解説など| |00:00|マルマルマルマル。深夜ですね。|| |01:00|マルヒトマルマル。提督、そろそろお休みにならないと。|| |02:00|提督?まだ寝なくて大丈夫ですか?現在時刻マルフタマルマルです。|| |03:00|マルサンマルマル。そろそろ流石にお疲れじゃないですか?|| |04:00|現在時刻マルヨンマルマルです。提督、そろそろ朝になっちゃいます。|| |05:00|提督、マルゴーマルマルです。空が白み始めてきちゃいましたね。|| |06:00|朝です。マルロクマルマル。提督、朝は本当に御早いですね。|| |07:00|マルナナマルマル、朝食の時間。大和ホテル自慢のコンソメ御飲みになります?|大和乗組の士官食堂用調理員は帝国ホテルや日本郵船の客船出身など腕利きの軍属が優先配置。&br()山本五十六は艦上生活で太り、ガダルカナルから帰ってきた辻政信(陸軍)は皮肉を漏らすほど。| |08:00|現在時刻マルハチマルマルです。連合艦隊旗艦としてそろそろ動きますね。|帝国海軍の始業は午前8時。| |09:00|マルキュウマルマルです。提督、今日の作戦行動はどうされますか?|| |10:00|提督、他の艦隊の運用はどうされます?時刻は今、ヒトマルマルマルです。|| |11:00|ヒトヒトマルマル。そろそろ昼食の準備をしないと…。何がいいですか?|| |12:00|ヒトフタマルマル ランチタイムに大和ホテル自慢の…あぁ…ホテルじゃないです|COLOR(white):朝7時にホテルと認めたのは忘れた模様。| |13:00|ヒトサンマルマル、です。食後は少し眠くなりますね。|| |14:00|ヒトヨンマルマルです。ふぁ~…はっ!あ、寝てませんよ!?|| |15:00|ヒトゴーマルマル。提督、ラムネでも飲まれますか?|帝国海軍では巡洋艦以上の艦艇に、消火装置の炭酸ガスを応用したラムネ製造機を積んでいた&br()酒保での価格は今の感覚で1本100円| |16:00|ヒトロクマルマル。そろそろ夕暮れ時ですね。|| |17:00|ヒトナナマルマル、提督、そろそろ日が暮れて来ました。|| |18:00|現在時刻ヒトハチマルマルです。今日は半舷上陸にしちゃいます?|半舷上陸:乗員を持ち場で右舷と左舷に分け、どちらか片方を休みとして上陸させ、残った側が当直勤務。| |19:00|ヒトキュウマルマル。艦隊執務はここまでにして、お夕食にしましょう。|帝国海軍の決まり上の終業は18時。毎日残業の模様。| |20:00|フタマルマルマルです。ディナーはフルコースですよー、なんたって大和ホテルの…|COLOR(white):再びホテルであると認める。ホテルなのかそうじゃないのかはっきりしない娘である。| |21:00|フタヒトマルマル。提督、大和の居住性、いかがでしょうか?|兵卒に到るまでベッド・個人ロッカーがあるほど。帝国海軍では異例中の異例。| |22:00|現在時刻、フタフタマルマルです。そろそろお風呂タイムかな?|| |23:00|時刻はフタサンマルマルです。提督、本日も一日、本当にお疲れ様でした。|| |放置時|ん……あ、提督ごめんなさい。主砲ちょっと邪魔ですか?|主砲の大きさは世界最大。砲塔全体の大きさはお台場にあったガンダムと大体同じ(18m)である。| ---- *同型艦 &bold(){大和}([[大和改]]) ― [[武蔵]]([[武蔵改]]) ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=大和/コメント) ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告

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