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「利根」(2016/02/28 (日) 21:40:11) の最新版変更点
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*CV
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井口裕香
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*Illustrator
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*史実情報
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1934年に[[最上]]型軽巡洋艦5番艦として起工するも、2年後の1936年に日本がワシントン・ロンドン両軍縮条約を破棄した
ことにより重巡洋艦として設計変更されたという経緯を持ち、その名残として姉妹艦の[[筑摩]]と同じく川の名前が
付けられている(軽巡は河川の名前、重巡は山の名前)。
水上偵察機は帝国海軍の艦隊決戦における「眼」の役割を果たす重要な要素であるのだが、肝心の帝国海軍の巡洋艦は最大
でも3機程度の水偵しか搭載できず、運用に不満があったのだ。
そのため帝国海軍は水偵運用を前提とした新たな艦隊の眼として新たなジャンル「航空巡洋艦」を模索し、建造したのが
この利根型である。
艦体は最上型に準じているものの、建造中に友鶴事件・第四艦隊事件が発生したため、泥縄式に改修工事を重ねた最上型
各艦と異なり最初から十分な船体強度を持っていた。
最大の特徴は英国のネルソン級戦艦のように主砲が艦前部に集中し、艦後部を水偵用の飛行甲板としたことである。
これは、主砲とカタパルトの距離が近い従来型重巡のカタパルト配置では、砲撃時の爆風で水偵が破損する懸念があった
ためであり(実際に戦時には[[妙高]]・[[高雄]]が砲撃の爆風で水偵を破損する事案が発生している)、そのため
主砲を最上型から1基削減し、前部に集中させたことで、爆風での破損問題と水偵搭載スペースの確保に成功、前代未聞の
6基の水偵の運用を可能としたのである。
また主砲を集中させたため防御面でも有利になり、[[最上]]型の時点で高い水準であった居住性もさらに良好となった。
ただし8門の主砲の砲弾の干渉が原因で、斉射時に主砲の命中率が下がる欠点もあった(後に発射遅延装置の搭載で解消された)。
開戦時は[[筑摩]]と第8戦隊を組成し、緒戦では真珠湾攻撃に参加。利根と筑摩から発艦した水偵がハワイ湾内の偵察を
行い、後の攻撃隊のお膳立てを行ったのである。また帰路にはウェーク島攻略作戦にも参加した。
その後は南方を転戦し、1942年6月のミッドウェー海戦ではカタパルトの1基が故障し、利根の4号水偵の発進が遅れる事態
が発生。その後30分遅れで発進した利根4号機は、進撃中の米機動部隊を補足したのであった。
この利根のカタパルト不調による米機動部隊発見の遅れこそミッドウェー海戦の敗因の一つとされてきたが、最近では定時
発進していたら逆に機動部隊を見つけられず、遅れての発進が幸となった。というのが明らかとなっている。
ミッドウェー海戦の惨敗後は各方面の攻略に従事。第二次ソロモン海海戦や南太平洋海戦に参加する。
1943年はトラックを基地としてマーシャル諸島やカロリン諸島で活動。しかし機関部に故障が見つかり、
第8戦隊旗艦を一時[[筑摩]]にバトンタッチして呉で修理を行った。
1944年3月にスマトラ島東方で、イギリス商船ビハール号に対し、アメリカ巡洋艦に偽装して接近し撃沈。
生存者を捕虜とし、うち数十名を殺害した。
1944年6月にマリアナ沖海戦後参加後、10月にはレイテ沖海戦に参加。
シブヤン海海戦で爆弾1発を被弾するものの、翌日のサマール沖海戦では重巡部隊の一員として突撃。
敵艦載機の反撃により[[熊野]]、[[鈴谷]]、[[鳥海]]、そして妹の[[筑摩]]が次々被弾落伍する中、
[[羽黒]]とともに食い下がり、敵護衛空母に射撃を浴びせ命中弾を与えている。
さらに、煙幕が薄れた先に4隻の空母が遁走するのを発見、追撃に移ろうとしたが、
ここで重巡部隊の動向を把握できていない[[大和]]から「集マレ」と命令がかかった。
利根はこれを無視して統制魚雷戦を決行する腹づもりで[[羽黒]]を誘ったが、
[[羽黒]]は命令に従って反転。利根も涙を呑んで撤退することとなった。
この追撃戦が行われていれば、栗田艦隊のその後の動向もまた違ったものになったかもしれないと言われている。
反転し集合に向かう途中、落伍停止した[[鈴谷]]から横付け救助を求められたが、
[[鈴谷]]の右舷発射管から炎が噴き出しているのを見て危険と判断、2000メートルの距離を置いて見守っていたところ、
案の定、まもなく[[鈴谷]]は酸素魚雷が誘爆し凄まじい大爆発を起こした。
もはや横付けどころか近づくことも不可能になったため、利根は救命艇を出して海へ飛び込んだ[[鈴谷]]の乗員たちを救助した。
なお落伍した[[筑摩]]はその後再度の空襲により沈み、利根は唯一の妹を失った。
大戦末期には搭載すべき航空機と燃料が尽き、江田島の海軍兵学校の練習艦として充てがわれ、最終的には海上砲台として呉軍港防空の任にあたった。
できるだけ軍艦に見えぬよう陸上から切り集められた木や枝によってカモフラージュが行われたが、効果は薄く、
「艦の植木が枯れています、そろそろ取り替えてはいかが」と米軍機にビラを撒かれ乗員は地団駄を踏んで悔しがったが、肝心の油がなくてはどうにもならなかった。
1945年7月24日、28日の両日に呉は大空襲を受け、利根も奮戦するも、米艦載機の攻撃によって合計11発の爆撃を受け、ついに力尽き大破着底した。死傷者は100名以上を数えた。
その艦体は1948年までに現地で解体され、戦後復興に一役買ったのである。現在、利根最後の場所となった広島県の能美島には、利根の慰霊碑と記念館が建てられている。
なお、ローマ字に直した時の綴りが「Tone(トネ)」であり、英米人に同じ綴りの英単語「Tone(トーン)」に艦名を間違われたことが多々あったとか。
&table_color(table1,#ddd){}
|>|>|~艦歴|
|発注|>|1934計画二等巡洋艦(軽巡洋艦)|
|起工|1934年12月1日|於三菱重工業長崎造船所|
||1935年01月02日|重巡洋艦に設計変更|
|進水|1937年11月21日||
|就役|1938年11月20日|横須賀鎮守府へ編入|
||1939年05月20日|第2艦隊第6戦隊に編入|
||1939年11月15日|第2艦隊第8戦隊を新設し旗艦となる(僚艦は&bold(){[[筑摩]]})|
||1939年12月01日|舞鶴鎮守府に転籍|
||1941年11月22日|&bold(){空母[[赤城]]}等からなる機動部隊と合流|
||1941年12月08日|&bold(){真珠湾奇襲攻撃}に参加。&br()この際、[[筑摩]]と共に偵察機による直前偵察を実施、湾内の状況を報告した。|
||1941年12月21日|第二次ウェーキ島攻略作戦に参加。&br()ここでも[[筑摩]]と共に偵察機による周辺の索敵および対潜哨戒を行った。|
||1942年01月23日|ラバウル攻略において、水上偵察機部隊がブカ島を爆撃|
||1942年01月24日|同攻略戦において、水上偵察機部隊がアドミラルティ諸島を爆撃|
||1942年02月19日|ポート・ダーウィン空襲を支援。この際偵察機が敵巡洋艦1隻を発見、攻撃隊を誘導し撃沈に貢献した。|
||1942年04月05日|セイロン沖海戦に参加。この際偵察機が敵巡洋艦2隻を発見、艦爆隊を誘導し2隻の撃沈に貢献した。|
||1942年06月05日|&bold(){ミッドウェー海戦}に参加。偵察に活躍したが、途中カタパルトにトラブルがあり偵察スケジュールに狂いが生じ&br()さらに偵察の際発見した敵艦隊の座標を間違えて報告するなどミスを重ねた。&br()これが、この戦いの敗因の一つとなったという見方がある。&br()(スケジュールが乱れたことで敵艦隊を発見でき、さらなる被害を抑えられたとする見方もある)|
||1942年06月28日|アリューシャン作戦に参加|
||1942年07月14日|新設された第3艦隊に編入|
||1942年08月24日|第二次ソロモン海戦に参加|
||1942年10月26日|南太平洋海戦に参加|
||1944年03月01日|第2艦隊第7戦隊に編入(僚艦は&bold(){[[熊野]]、[[鈴谷]]、[[筑摩]]})|
||1944年06月19日|&bold(){マリアナ沖海戦(あ号作戦)}に参加|
||1944年10月25日|&bold(){レイテ沖海戦(捷一号作戦)}におけるサマール沖海戦に参加。爆撃数発を受け大損害を被るも敵空母撃沈に貢献し帰投。&br()なおこの戦いで姉妹艦の[[筑摩]]が戦没|
||1944年03月01日|第2艦隊第5戦隊に編入|
||1945年01月01日|呉鎮守府練習兼警備艦となる|
||1945年03月19日|空襲にて直撃弾1発を受け損傷|
||1945年07月14日|呉軍港空襲にて直撃弾4発を受け損傷|
|沈没|1945年07月28日|空襲にて直撃弾6発を受け大破着底|
|除籍|1945年11月20日|除籍後浮揚|
|解体|1948年||
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*台詞一覧
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&table_color(table2,#ddd){}
|~状況 |~台詞 |~関連する史実や元ネタ、解説など|
|自己紹介|吾輩が利根である!吾輩が艦隊に加わる以上、もう、索敵の心配はないぞ!|ミッドウェー海戦で利根の水偵二番機が米機動部隊を発見。その他様々な戦いで索敵に活躍。|
|秘書クリック会話①|うむ。参ろうか!||
|秘書クリック会話②|演習か?実戦か?|大戦末期に練習艦として呉に配備|
|秘書クリック会話③|提督よ、お主なかなかヒマそうじゃの?戦闘は兵站や準備こそが大事なのじゃぞ?|トラック周辺での兵員輸送活動も行った|
|戦績表示時|文が来ているぞ。確認せんのか?||
|編成選択時|いざ!出陣だな!||
|装備時①|ほう、これはなかなかのものじゃな||
|装備時②|礼を言おう…筑摩のやつより、また強くなってしまったな!||
|装備時③|やったぞ!||
|>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)|
|ドック入り|うむ。そうだ。小まめな修繕が勝利をもたらすのじゃ!||
|ドック入り(重傷)|ぬぅ・・・我輩もちと疲れたぞ。しばらく・・・寝る!||
|建造時|艦の建造が終わったぞ||
|艦隊帰投時|作戦終了。艦隊が帰投したようじゃ。||
|出撃時|利根、出撃するぞ!||
|戦闘開始時|その艦貰ったぁ!||
|攻撃時|馬鹿な、カタパルトが不調じゃと?|ミッドウェー海戦時の出来事|
|夜戦開始時|我が索敵機から逃げられるとでも思ったか!|自己紹介に同じ|
|夜戦攻撃時|まだまだ・・・!筑摩には負けん!||
|MVP時|吾輩がいる以上当然の勝利じゃ!筑摩のやつより"少し"お姉さんなのだからな!|就役が筑摩より半年ほど早い|
|被弾小破①|なっ至近弾だと!?||
|被弾小破②|馬鹿な!?被弾か!?||
|被弾カットイン|直撃だと!?…この程度では吾輩は沈まぬ!|呉軍港でのべ11発の直撃弾を受けるまで持ち堪えた|
|撃沈時(反転)|COLOR(white):抜かった…!我輩が沈む、か…百万年の昼寝だな… |COLOR(white):大西瀧治郎海軍中将辞世の句「これでよし百万年の仮寝かな」から?|
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*コメント
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*CV
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井口裕香
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*Illustrator
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*史実情報
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1934年に[[最上]]型軽巡洋艦5番艦として起工するも、2年後の1936年に日本がワシントン・ロンドン両軍縮条約を破棄した
ことにより重巡洋艦として設計変更されたという経緯を持ち、その名残として姉妹艦の[[筑摩]]と同じく川の名前が
付けられている(軽巡は河川の名前、重巡は山の名前)。
水上偵察機は帝国海軍の艦隊決戦における「眼」の役割を果たす重要な要素であるのだが、肝心の帝国海軍の巡洋艦は最大
でも3機程度の水偵しか搭載できず、運用に不満があったのだ。
そのため帝国海軍は水偵運用を前提とした新たな艦隊の眼として新たなジャンル「航空巡洋艦」を模索し、建造したのが
この利根型である。
艦体は最上型に準じているものの、建造中に友鶴事件・第四艦隊事件が発生したため、泥縄式に改修工事を重ねた最上型
各艦と異なり最初から十分な船体強度を持っていた。
最大の特徴は英国のネルソン級戦艦のように主砲が艦前部に集中し、艦後部を水偵用の飛行甲板としたことである。
これは、主砲とカタパルトの距離が近い従来型重巡のカタパルト配置では、砲撃時の爆風で水偵が破損する懸念があった
ためであり(実際に戦時には[[妙高]]・[[高雄]]が砲撃の爆風で水偵を破損する事案が発生している)、そのため
主砲を最上型から1基削減し、前部に集中させたことで、爆風での破損問題と水偵搭載スペースの確保に成功、前代未聞の
6基の水偵の運用を可能としたのである。
また主砲を集中させたため防御面でも有利になり、[[最上]]型の時点で高い水準であった居住性もさらに良好となった。
ただし8門の主砲の砲弾の干渉が原因で、斉射時に主砲の命中率が下がる欠点もあった(後に発射遅延装置の搭載で解消された)。
開戦時は[[筑摩]]と第8戦隊を組成し、緒戦では真珠湾攻撃に参加。利根と筑摩から発艦した水偵がハワイ湾内の偵察を
行い、後の攻撃隊のお膳立てを行ったのである。また帰路にはウェーク島攻略作戦にも参加した。
その後は南方を転戦し、1942年6月のミッドウェー海戦ではカタパルトの1基が故障し、利根の4号水偵の発進が遅れる事態
が発生。その後30分遅れで発進した利根4号機は、進撃中の米機動部隊を補足したのであった。
この利根のカタパルト不調による米機動部隊発見の遅れこそミッドウェー海戦の敗因の一つとされてきたが、最近では定時
発進していたら逆に機動部隊を見つけられず、遅れての発進が幸となった。というのが明らかとなっている。
ミッドウェー海戦の惨敗後は各方面の攻略に従事。第二次ソロモン海海戦や南太平洋海戦に参加する。
1943年はトラックを基地としてマーシャル諸島やカロリン諸島で活動。しかし機関部に故障が見つかり、
第8戦隊旗艦を一時[[筑摩]]にバトンタッチして呉で修理を行った。
1944年3月、インド洋上で通商破壊任務にあたっていた利根は、英国籍の商船ビハールを撃沈。同船の乗員115名を捕虜とする。
この際、当時の利根艦長である黛治夫大佐の命令で、利根は菊の御紋章の隠蔽・アメリカ国旗を掲げるなどしてビハールへ接近。
さらに女性含む35名をバタビアの捕虜収容所に送った後に、残る捕虜80名を甲板上で射殺する命令を下し、それを実行した。
これら一連の出来事は後にビハール号事件と呼ばれ、黛治夫大佐と利根の所属した第16戦隊司令官の左近允尚正少将は戦後、英国法廷で裁かれる事となった。
このビハール号事件は駆逐艦秋風での捕虜虐殺事件と並び、日本海軍の国際法違反事例の代表格的に語られている。
(この乗組員虐殺命令は[[伊8]]の項目にもあるように、同盟国ドイツからの要請による『正式な命令』だったようだ)
1944年6月にマリアナ沖海戦後参加後、10月にはレイテ沖海戦に参加。
シブヤン海海戦で爆弾1発を被弾するものの、翌日のサマール沖海戦では重巡部隊の一員として突撃。
敵艦載機の反撃により[[熊野]]、[[鈴谷]]、[[鳥海]]、そして妹の[[筑摩]]が次々被弾落伍する中、
[[羽黒]]とともに食い下がり、敵護衛空母に射撃を浴びせ命中弾を与えている。
さらに、煙幕が薄れた先に4隻の空母が遁走するのを発見、追撃に移ろうとしたが、
ここで重巡部隊の動向を把握できていない[[大和]]から「集マレ」と命令がかかった。
利根はこれを無視して統制魚雷戦を決行する腹づもりで[[羽黒]]を誘ったが、
[[羽黒]]は命令に従って反転。利根も涙を呑んで撤退することとなった。
この追撃戦が行われていれば、栗田艦隊のその後の動向もまた違ったものになったかもしれないと言われている。
反転し集合に向かう途中、落伍停止した[[鈴谷]]から横付け救助を求められたが、
[[鈴谷]]の右舷発射管から炎が噴き出しているのを見て危険と判断、2000メートルの距離を置いて見守っていたところ、
案の定、まもなく[[鈴谷]]は酸素魚雷が誘爆し凄まじい大爆発を起こした。
もはや横付けどころか近づくことも不可能になったため、利根は救命艇を出して海へ飛び込んだ[[鈴谷]]の乗員たちを救助した。
なお落伍した[[筑摩]]はその後再度の空襲により沈み、利根は唯一の妹を失った。
大戦末期には搭載すべき航空機と燃料が尽き、江田島の海軍兵学校の練習艦として充てがわれ、最終的には海上砲台として呉軍港防空の任にあたった。
できるだけ軍艦に見えぬよう陸上から切り集められた木や枝によってカモフラージュが行われたが、効果は薄く、
「艦の植木が枯れています、そろそろ取り替えてはいかが」と米軍機にビラを撒かれ乗員は地団駄を踏んで悔しがったが、肝心の油がなくてはどうにもならなかった。
1945年7月24日、28日の両日に呉は大空襲を受け、利根も奮戦するも、米艦載機の攻撃によって合計11発の爆撃を受け、ついに力尽き大破着底した。死傷者は100名以上を数えた。
その艦体は1948年までに現地で解体され、戦後復興に一役買ったのである。現在、利根最後の場所となった広島県の能美島には、利根の慰霊碑と記念館が建てられている。
なお、ローマ字に直した時の綴りが「Tone(トネ)」であり、英米人に同じ綴りの英単語「Tone(トーン)」に艦名を間違われたことが多々あったとか。
&table_color(table1,#ddd){}
|>|>|~艦歴|
|発注|>|1934計画二等巡洋艦(軽巡洋艦)|
|起工|1934年12月1日|於三菱重工業長崎造船所|
||1935年01月02日|重巡洋艦に設計変更|
|進水|1937年11月21日||
|就役|1938年11月20日|横須賀鎮守府へ編入|
||1939年05月20日|第2艦隊第6戦隊に編入|
||1939年11月15日|第2艦隊第8戦隊を新設し旗艦となる(僚艦は&bold(){[[筑摩]]})|
||1939年12月01日|舞鶴鎮守府に転籍|
||1941年11月22日|&bold(){空母[[赤城]]}等からなる機動部隊と合流|
||1941年12月08日|&bold(){真珠湾奇襲攻撃}に参加。&br()この際、[[筑摩]]と共に偵察機による直前偵察を実施、湾内の状況を報告した。|
||1941年12月21日|第二次ウェーキ島攻略作戦に参加。&br()ここでも[[筑摩]]と共に偵察機による周辺の索敵および対潜哨戒を行った。|
||1942年01月23日|ラバウル攻略において、水上偵察機部隊がブカ島を爆撃|
||1942年01月24日|同攻略戦において、水上偵察機部隊がアドミラルティ諸島を爆撃|
||1942年02月19日|ポート・ダーウィン空襲を支援。この際偵察機が敵巡洋艦1隻を発見、攻撃隊を誘導し撃沈に貢献した。|
||1942年04月05日|セイロン沖海戦に参加。この際偵察機が敵巡洋艦2隻を発見、艦爆隊を誘導し2隻の撃沈に貢献した。|
||1942年06月05日|&bold(){ミッドウェー海戦}に参加。偵察に活躍したが、途中カタパルトにトラブルがあり偵察スケジュールに狂いが生じ&br()さらに偵察の際発見した敵艦隊の座標を間違えて報告するなどミスを重ねた。&br()これが、この戦いの敗因の一つとなったという見方がある。&br()(スケジュールが乱れたことで敵艦隊を発見でき、さらなる被害を抑えられたとする見方もある)|
||1942年06月28日|アリューシャン作戦に参加|
||1942年07月14日|新設された第3艦隊に編入|
||1942年08月24日|第二次ソロモン海戦に参加|
||1942年10月26日|南太平洋海戦に参加|
||1944年03月01日|第2艦隊第7戦隊に編入(僚艦は&bold(){[[熊野]]、[[鈴谷]]、[[筑摩]]})|
||1944年06月19日|&bold(){マリアナ沖海戦(あ号作戦)}に参加|
||1944年10月25日|&bold(){レイテ沖海戦(捷一号作戦)}におけるサマール沖海戦に参加。爆撃数発を受け大損害を被るも敵空母撃沈に貢献し帰投。&br()なおこの戦いで姉妹艦の[[筑摩]]が戦没|
||1944年03月01日|第2艦隊第5戦隊に編入|
||1945年01月01日|呉鎮守府練習兼警備艦となる|
||1945年03月19日|空襲にて直撃弾1発を受け損傷|
||1945年07月14日|呉軍港空襲にて直撃弾4発を受け損傷|
|沈没|1945年07月28日|空襲にて直撃弾6発を受け大破着底|
|除籍|1945年11月20日|除籍後浮揚|
|解体|1948年||
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*台詞一覧
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&table_color(table2,#ddd){}
|~状況 |~台詞 |~関連する史実や元ネタ、解説など|
|自己紹介|吾輩が利根である!吾輩が艦隊に加わる以上、もう、索敵の心配はないぞ!|ミッドウェー海戦で利根の水偵二番機が米機動部隊を発見。その他様々な戦いで索敵に活躍。|
|秘書クリック会話①|うむ。参ろうか!||
|秘書クリック会話②|演習か?実戦か?|大戦末期に練習艦として呉に配備|
|秘書クリック会話③|提督よ、お主なかなかヒマそうじゃの?戦闘は兵站や準備こそが大事なのじゃぞ?|トラック周辺での兵員輸送活動も行った|
|戦績表示時|文が来ているぞ。確認せんのか?||
|編成選択時|いざ!出陣だな!||
|装備時①|ほう、これはなかなかのものじゃな||
|装備時②|礼を言おう…筑摩のやつより、また強くなってしまったな!||
|装備時③|やったぞ!||
|>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)|
|ドック入り|うむ。そうだ。小まめな修繕が勝利をもたらすのじゃ!||
|ドック入り(重傷)|ぬぅ・・・我輩もちと疲れたぞ。しばらく・・・寝る!||
|建造時|艦の建造が終わったぞ||
|艦隊帰投時|作戦終了。艦隊が帰投したようじゃ。||
|出撃時|利根、出撃するぞ!||
|戦闘開始時|その艦貰ったぁ!||
|攻撃時|馬鹿な、カタパルトが不調じゃと?|ミッドウェー海戦時の出来事|
|夜戦開始時|我が索敵機から逃げられるとでも思ったか!|自己紹介に同じ|
|夜戦攻撃時|まだまだ・・・!筑摩には負けん!||
|MVP時|吾輩がいる以上当然の勝利じゃ!筑摩のやつより"少し"お姉さんなのだからな!|就役が筑摩より半年ほど早い|
|被弾小破①|なっ至近弾だと!?||
|被弾小破②|馬鹿な!?被弾か!?||
|被弾カットイン|直撃だと!?…この程度では吾輩は沈まぬ!|呉軍港でのべ11発の直撃弾を受けるまで持ち堪えた|
|撃沈時(反転)|COLOR(white):抜かった…!我輩が沈む、か…百万年の昼寝だな… |COLOR(white):大西瀧治郎海軍中将辞世の句「これでよし百万年の仮寝かな」から?|
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*コメント
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