妙高

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妙高」(2014/12/12 (金) 15:02:18) の最新版変更点

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#image(No055.jpg) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV ---- 種田梨沙 ---- *史実情報 ---- #image(myoukou.jpg) 昭和6年の姿。均整のとれたフォルムが美しい。 ワシントン海軍軍縮条約で、主力艦を制限された各国海軍は、巡洋艦に活路を見出そうとしていた、 同条約で戦艦と空母は制限を受けたものの、巡洋艦は排水量と主砲サイズの上限を決め、数値によって分類するとしただけだった。 戦艦には及ばずとも、上限いっぱいの8インチ砲を搭載した艦が、戦艦に次ぐ戦力となることは可能である。 それに、制限されていないのだから何隻でも造れるのだ。 日本海軍は古鷹型を拡大した、新型重巡妙高型の建造を開始。 軍令部は排水量1万トン、速力35.5ノット、航続力13.5ノットで1万海里、20センチ砲8門、高角砲4門、魚雷発射管8門という性能を要求。 対して、設計を担当した平賀譲は航続距離を8千海里に短縮し、魚雷発射管を全廃することで、主砲10門と水雷防御の強化を提案。 軍令部は1万トンに主砲10門は収まらないと反発したが、最終的に平賀の提案を呑む形で設計は進んだ。 しかし軍令部は魚雷は必須と考えており、平賀の欧州出張の隙に図面を書き換えた。この設計変更は、居住区画の減少につながった。 この他、装甲には戦艦[[長門]]や[[加賀]]と同じ手法が用いられるなどしている。 妙高型の性能は同時期の各国重巡と比較しても飛びぬけており、英米が脅威を感じたとはよく言われている。 とはいえ、主砲の散布界が広すぎる、艦体中央を縦に区切る隔壁があるなど、欠点が無い訳でもなかった。 1番艦&bold(){妙高}は1924年10月25日、横須賀工廠で起工。[[那智]]と[[羽黒]]に遅れて1929年7月31日に竣工した。 完成後は姉妹で第5戦隊を編成。1937年には日中戦争の支援に出撃している。 妙高型は近代化改装を二度行っており、主砲や防御力の能力向上、高角砲の交換などを行っている。 なお不具合が多く悪名高かった艦体固定の三連装魚雷発射管を、上甲板の旋回式四連装魚雷発射管に替えたのもこの時。 #image(myoukou2.jpg) 1941年3月 二度の近代化改装を終えた姿。美しさはそのままに、力強さを合わせた姿となった。 太平洋戦争が始まると、&bold(){妙高}はフィリピン方面に進出。 1942年3月1日のスラバヤ沖海戦では、[[那智]]、[[羽黒]]と共に敵艦を撃沈。その後も珊瑚海海戦から南太平洋海戦までを戦った。 1943年11月2日のブービンゲル島沖海戦では、駆逐艦[[初風]]と衝突し損傷。海戦も日本の敗北に終わる。 1944年6月19日のマリアナ沖海戦には機動部隊の護衛として参加。 10月のレイテ沖海戦では第一遊撃部隊=栗田艦隊に[[羽黒]]と共に配置され、[[大和]]以下戦艦部隊と共にレイテ湾を目指す。 しかし、24日のシブヤン海海戦で妙高は米空母艦載機の攻撃を受け、右舷後部に魚雷1本が命中。速力が12ノットに低下し、戦場を離脱した。 なんとか退避に成功した妙高は応急修理を終え、本格的な修理を受けるべく、駆逐艦[[潮]]と共に出港。 だが12月13日夜、サイゴン沖を航行中に米潜水艦バーゴールの雷撃を受け、艦尾を切断し航行不能となる。 &bold(){妙高}は電探射撃で反撃、同艦を大破させるも沈没には至らなかった。 艦尾切断により進退窮まった&bold(){妙高}はシンガポールへ曳航され、同地で浮き砲台となることが決定。 そのまま日本に帰ることなく、同地で終戦を迎えた。 日本の重巡で終戦時水上にあったのは、行動不能だったとはいえ本艦と[[高雄]]のみである。 #image(myoukou3.jpg) 終戦時の姿。特徴的な迷彩がよく解る。 その後、戦後買収でイギリスに接収された妙高は、1946年7月8日にマラッカ海峡で海没処分された。 現在では、こんごう型イージス艦の3番艦に名前が継承されている。 //かの宮崎駿は「妙高型を褒めるのは素人。私のような玄人に言わせれば、英国巡洋艦の方が優れている」という旨の投稿を軍事雑誌にしており、掲載されたことがある。(コメ欄が荒れそうだったので) 余談だが、戦前の5.15事件や戦後の三無事件の主犯である右翼・三上卓は5.15事件発生時、妙高乗組の中尉であった。 ---- *台詞一覧 ---- |状況 |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|私、妙高型重巡洋艦、妙高と申します。共に頑張りましょう| | |秘書クリック会話①|提督。お呼びになりましたか?|| |秘書クリック会話②|何か……、ご用でしょうか?|| |秘書クリック会話③|もし、難しい話なら、向こうでいたしましょうか?|| |戦績表示時|作戦司令部より、ご伝言があるようですよ?|| |編成選択時|妙高、参ります|| |装備時①|また、強くなってしまいました|| |装備時②|これでは、どんどん強くなってしまいますわ。どうしましょう|| |装備時③|どうしましょう|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |ドック入り|ここは、静かですね|| |ドック入り(重傷)|私のような者が、お休みを頂いても良いのでしょうか|| |建造時|あら、新しい仲間をお迎えしますね|| |艦隊帰投時|艦隊帰投です。素晴らしい戦果ですね!|| |出撃時|この戦い、退くわけには参りませんわ!|| |戦闘開始時|撃ちます!|| |攻撃時|第一・第二主砲、斉射、始めます!|| |夜戦開始時|致し方ありません…追撃戦に移行します!|| |夜戦攻撃時|もう、降参して下さい!|| |MVP時|他の皆さんの努力の結果です、皆さんを褒めてあげて下さいね|| |被弾小破①|ああっ!? ……ま、まだ退けません!|| |被弾小破②|もうやめてください!|| |被弾カットイン|これ以上……私にどうしろと言うのですか……|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):また…来世で…さようなら…|COLOR(white):こんごう型護衛艦3番艦みょうこうの事を指していると思われる。| ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=コメント/妙高) ---- *外部リンク -[[Wikipedia:妙高 (重巡洋艦)>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E9%AB%98_(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)]] ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告
#image(No055.jpg) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV ---- 種田梨沙 ---- *Illustrator ---- bob ---- *史実情報 ---- #image(myoukou.jpg) 昭和6年の姿。均整のとれたフォルムが美しい。 ワシントン海軍軍縮条約で、主力艦を制限された各国海軍は、巡洋艦に活路を見出そうとしていた、 同条約で戦艦と空母は制限を受けたものの、巡洋艦は排水量と主砲サイズの上限を決め、数値によって分類するとしただけだった。 戦艦には及ばずとも、上限いっぱいの8インチ砲を搭載した艦が、戦艦に次ぐ戦力となることは可能である。 それに、制限されていないのだから何隻でも造れるのだ。 日本海軍は古鷹型を拡大した、新型重巡妙高型の建造を開始。 軍令部は排水量1万トン、速力35.5ノット、航続力13.5ノットで1万海里、20センチ砲8門、高角砲4門、魚雷発射管8門という性能を要求。 対して、設計を担当した平賀譲は航続距離を8千海里に短縮し、魚雷発射管を全廃することで、主砲10門と水雷防御の強化を提案。 軍令部は1万トンに主砲10門は収まらないと反発したが、最終的に平賀の提案を呑む形で設計は進んだ。 しかし軍令部は魚雷は必須と考えており、平賀の欧州出張の隙に図面を書き換えた。この設計変更は、居住区画の減少につながった。 この他、装甲には戦艦[[長門]]や[[加賀]]と同じ手法が用いられるなどしている。 妙高型の性能は同時期の各国重巡と比較しても飛びぬけており、英米が脅威を感じたとはよく言われている。 とはいえ、主砲の散布界が広すぎる、艦体中央を縦に区切る隔壁があるなど、欠点が無い訳でもなかった。 1番艦&bold(){妙高}は1924年10月25日、横須賀工廠で起工。[[那智]]と[[羽黒]]に遅れて1929年7月31日に竣工した。 完成後は姉妹で第5戦隊を編成。1937年には日中戦争の支援に出撃している。 妙高型は近代化改装を二度行っており、主砲や防御力の能力向上、高角砲の交換などを行っている。 なお不具合が多く悪名高かった艦体固定の三連装魚雷発射管を、上甲板の旋回式四連装魚雷発射管に替えたのもこの時。 #image(myoukou2.jpg) 1941年3月 二度の近代化改装を終えた姿。美しさはそのままに、力強さを合わせた姿となった。 太平洋戦争が始まると、&bold(){妙高}はフィリピン方面に進出。 1942年3月1日のスラバヤ沖海戦では、[[那智]]、[[羽黒]]と共に敵艦を撃沈。その後も珊瑚海海戦から南太平洋海戦までを戦った。 1943年11月2日のブービンゲル島沖海戦では、駆逐艦[[初風]]と衝突し損傷。海戦も日本の敗北に終わる。 1944年6月19日のマリアナ沖海戦には機動部隊の護衛として参加。 10月のレイテ沖海戦では第一遊撃部隊=栗田艦隊に[[羽黒]]と共に配置され、[[大和]]以下戦艦部隊と共にレイテ湾を目指す。 しかし、24日のシブヤン海海戦で妙高は米空母艦載機の攻撃を受け、右舷後部に魚雷1本が命中。速力が12ノットに低下し、戦場を離脱した。 なんとか退避に成功した妙高は応急修理を終え、本格的な修理を受けるべく、駆逐艦[[潮]]と共に出港。 だが12月13日夜、サイゴン沖を航行中に米潜水艦バーゴールの雷撃を受け、艦尾を切断し航行不能となる。 &bold(){妙高}は電探射撃で反撃、同艦を大破させるも沈没には至らなかった。 艦尾切断により進退窮まった&bold(){妙高}はシンガポールへ曳航され、同地で浮き砲台となることが決定。 そのまま日本に帰ることなく、同地で終戦を迎えた。 日本の重巡で終戦時水上にあったのは、行動不能だったとはいえ本艦と[[高雄]]のみである。 #image(myoukou3.jpg) 終戦時の姿。特徴的な迷彩がよく解る。 その後、戦後買収でイギリスに接収された妙高は、1946年7月8日にマラッカ海峡で海没処分された。 現在では、こんごう型イージス艦の3番艦に名前が継承されている。 //かの宮崎駿は「妙高型を褒めるのは素人。私のような玄人に言わせれば、英国巡洋艦の方が優れている」という旨の投稿を軍事雑誌にしており、掲載されたことがある。(コメ欄が荒れそうだったので) 余談だが、戦前の5.15事件や戦後の三無事件の主犯である右翼・三上卓は5.15事件発生時、妙高乗組の中尉であった。 ---- *台詞一覧 ---- &table_color(table1,#ddd){} |~状況 |~台詞 |~関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|私、妙高型重巡洋艦、妙高と申します。共に頑張りましょう| | |秘書クリック会話①|提督。お呼びになりましたか?|| |秘書クリック会話②|何か……、ご用でしょうか?|| |秘書クリック会話③|もし、難しい話なら、向こうでいたしましょうか?|| |戦績表示時|作戦司令部より、ご伝言があるようですよ?|| |編成選択時|妙高、参ります|| |装備時①|また、強くなってしまいました|| |装備時②|これでは、どんどん強くなってしまいますわ。どうしましょう|| |装備時③|どうしましょう|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |ドック入り|ここは、静かですね|| |ドック入り(重傷)|私のような者が、お休みを頂いても良いのでしょうか|| |建造時|あら、新しい仲間をお迎えしますね|| |艦隊帰投時|艦隊帰投です。素晴らしい戦果ですね!|| |出撃時|この戦い、退くわけには参りませんわ!|| |戦闘開始時|撃ちます!|| |攻撃時|第一・第二主砲、斉射、始めます!|| |夜戦開始時|致し方ありません…追撃戦に移行します!|| |夜戦攻撃時|もう、降参して下さい!|| |MVP時|他の皆さんの努力の結果です、皆さんを褒めてあげて下さいね|| |被弾小破①|ああっ!? ……ま、まだ退けません!|| |被弾小破②|もうやめてください!|| |被弾カットイン|これ以上……私にどうしろと言うのですか……|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):また…来世で…さようなら…|COLOR(white):こんごう型護衛艦3番艦みょうこうの事を指していると思われる。| ---- *同型艦 &bold(){妙高} ― [[那智]] ― [[足柄]] ― [[羽黒]]([[羽黒改二]]) ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=妙高/コメント) ---- *外部リンク -[[Wikipedia:妙高 (重巡洋艦)>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E9%AB%98_(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)]] ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告

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