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「加古」(2014/12/12 (金) 14:55:28) の最新版変更点
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#image(No053.jpg)
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*CV
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大坪由佳
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*Illustrator
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絵師
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*史実情報
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進水:1925年4月10日 神戸川崎造船所
戦没:1942年8月10日(1942年9月15日除籍)
#image(Kako.jpg)
近代化改修以前の加古。20cm単装砲が特徴的である。
本来は加古型一等巡洋艦のネームシップとなる予定であったが、起重機の事故で艦体が破損。
そのため姉妹艦[[古鷹]]より約4ヶ月遅れての完成となり、加古型1番艦ではなく、古鷹型2番艦となってしまったという経緯を持つ。
艦名が山ではなく川由来(兵庫県・加古川)なのは、元は[[川内]]型4番艦建造される予定だったものが、軍縮によって中止・変更されたためである。
[[古鷹]]の項目に詳しいが、軽巡の系列に属する設計でありながらも強力な20cm砲と軽巡砲を無効化しうる重装甲を備えた傑作艦であるが、
やはり古鷹と同じく居住性は良いとは言いがたく、横を内火艇が通っただけで舷窓から浸水するそのさまは、『水族館』と揶揄されるほどであった。
戦前から一貫し、同型艦の[[古鷹]]、準同型艦の[[青葉]]、[[衣笠]]と同じ戦隊を組成。
1936年からは近代化改修が実施され、問題の多かった単装砲を[[青葉]]型同様の連装砲に換装。また魚雷発射管の位置変更やカタパルトの設置が行われた。
なお近代化改修後の[[古鷹]]型と[[青葉]]型の見分け方であるが、二番煙突が細く、後部マストがカタパルトより後部に位置するのが古鷹型である。
#image(kako2.jpg)
近代化改修後の加古。次発装填装置付き四連装魚雷発射管やカタパルトなどが追加された。
太平洋戦争開戦時には第八艦隊第六戦隊に所属し、各地を転戦。
緒戦ではグァム島攻略作戦や第二次ウェーキ島攻略作戦に加わった。ジャワ方面での華々しい艦隊戦には参加しなかったが、1942年1月以降は南洋方面でその真価を発揮する。
第六戦隊はラバウル・サラモア・ブーゲンヴィルの各攻略作戦に相次いで参加。同年5月の珊瑚海海戦では[[古鷹]]とともに機動部隊護衛に参加。[[翔鶴]]の援護を行った。
1942年8月の第一次ソロモン海戦においては、僚艦共々その小柄な船体に秘められた攻撃的スペックをふんだんに生かし破竹の活躍を見せつける。
加古はまず魚雷でオーストラリア海軍の重巡キャンベラを撃沈。その後第八艦隊の各艦と共同でアメリカ海軍の重巡アストリア、クインシーを砲戦にて撃沈せしめる。
この戦いで第八艦隊は重巡4と駆逐1撃沈、重巡1駆逐1を大破せしめる『戦術的』大勝利を収めた((戦術的と書いたのは、敵機動部隊による反撃を恐れて本来の攻撃目的であった輸送艦隊の攻撃を放棄し、帰投についたため))。
しかし、攻撃からの帰路にあった8月10日7時6分、
旗艦・青葉からの指示もあり戦隊全体が警戒態勢を緩めていたところ、突如、右舷より魚影が接近。それは人知れず肉薄していた米潜水艦「S44(SS-155)」より放たれた雷撃であった。
咄嗟に反応し舵を切った加古のクルーであったが、元来の舵の効きづらさ、そして絶好の位置から放たれた雷撃をかわすことは出来ず、直撃。
三本もの雷撃を立て続けに小さな体に受けた加古は、もはや即死と言っても過言では無い状態であった。
加古の艦体は右舷方向に傾斜し、発電機も停止。
そして35分後の8月10日7時41分には、その船体は完全に海に没してしまっていたという。
それは、穏やかなカビエンの泊地まで、あと100浬というところであった。
艦長らの迅速な判断や僚艦の救助の速さもあって、乗員639名のうち、命を落としたものは34名にのみとどまったのが唯一の救いであろうか。
余談であるが、最後の艦長となった高橋雄次大佐(当時)は戦死することなく終戦まで生き延び、戦後、『鉄底海峡』という回想録を出版している。
開戦から沈没、そしてその後の後始末までを一艦長の視線で綴った面白いものなので、興味のある方は参考にされたし。
なお、この本には戦後に高橋艦長と、加古を撃沈したS-44のジョン・ムーア艦長との対談の様子も綴られている。
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*台詞一覧
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|状況 |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など|
|自己紹介|古鷹型重巡の2番艦、加古ってんだ、よっろしくぅー!||
|秘書クリック会話①|ふぁ~、眠い|就役の遅れ=寝坊、ということだろうか|
|秘書クリック会話②|作戦会議?古鷹から聞くからさ……それじゃ、だめ?||
|秘書クリック会話③|はいはいはいはい!ちゃんと聞いてるから!スカート引っ張んないでぇ!|就役が遅れた原因は竣工直前にクレーン事故で船体を損傷したのが原因とされている|
|戦績表示時|提督に手紙が……起きてる起きてるよぉ||
|編成選択時|いよっしゃあ!あたしの出番だね|開戦時の第六戦隊は雑用めいた護衛任務ばかりをしていた。暇をもてあました結果、爆薬で魚を乱獲したり、上陸するたびにヤシの実を大量に調達してきたり、牧場の牛を勝手に狩って食ってお咎めを受けそうになったこともある。しかしその様相もミッドウェーの敗北を期に一変する。|
|装備時①|なんか、かっこいいぞ私、ふふん||
|装備時②|うぉお目が冴えてきた。力が漲ってきたよー||
|装備時③|よっしゃラッキー||
|>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)|
|ドック入り|だめ…だるい…艤装が…まぁいっか…||
|ドック入り(重傷)|あーマジで死ぬ…死ぬほど寝かせて||
|建造時|新しい艦が出来たという報告でーす||
|艦隊帰投時|作戦が完了したという報告…Zzz||
|出撃時|加古、出撃ぃ!古鷹、付いてきて|開戦時、第六戦隊では二番艦であったため、四番艦である古鷹より前を航行している/またそれ以前では旗艦として第六戦隊を率いていた時期もある|
|戦闘開始時|ぶっ飛ばす!||
|攻撃時|いっちょあーがりー||
|夜戦開始時|加古スペシャルを食らいやがれ!||
|夜戦攻撃時|古鷹、見てくれてた?|第一次ソロモンにおいて古鷹はトラブルにより艦隊からはぐれてしまっていたので加古の戦果をあんまり見てない|
|MVP時|あたしゃねぇ、やるときはやるんだよ。だから、帰ったらいっぱい寝かせてー!|史実において、第一次ソロモン海戦にて大活躍を果たしたものの、泊地に帰り着く寸前に被雷し沈没している/なお、最後の艦長である高橋大佐は酒豪である。それを踏まえるとなんか酔ってるような口調に聞こえなくもない|
|被弾小破①|やば、前に出すぎた||
|被弾小破②|砲台が吹っ飛んだぁ!?||
|被弾カットイン|こぉの~!変態野郎が!|私ではない|
|撃沈時(反転)|COLOR(white):昔から調子こいては、古鷹に怒られていたっけなぁ…||
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*コメント
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*CV
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大坪由佳
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*Illustrator
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絵師
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*史実情報
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進水:1925年4月10日 神戸川崎造船所
戦没:1942年8月10日(1942年9月15日除籍)
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近代化改修以前の加古。20cm単装砲が特徴的である。
本来は加古型一等巡洋艦のネームシップとなる予定であったが、起重機の事故で艦体が破損。
そのため姉妹艦[[古鷹]]より約4ヶ月遅れての完成となり、加古型1番艦ではなく、古鷹型2番艦となってしまったという経緯を持つ。
艦名が山ではなく川由来(兵庫県・加古川)なのは、元は[[川内]]型4番艦建造される予定だったものが、軍縮によって中止・変更されたためである。
[[古鷹]]の項目に詳しいが、軽巡の系列に属する設計でありながらも強力な20cm砲と軽巡砲を無効化しうる重装甲を備えた傑作艦であるが、
やはり古鷹と同じく居住性は良いとは言いがたく、横を内火艇が通っただけで舷窓から浸水するそのさまは、『水族館』と揶揄されるほどであった。
戦前から一貫し、同型艦の[[古鷹]]、準同型艦の[[青葉]]、[[衣笠]]と同じ戦隊を組成。
1936年からは近代化改修が実施され、問題の多かった単装砲を[[青葉]]型同様の連装砲に換装。また魚雷発射管の位置変更やカタパルトの設置が行われた。
なお近代化改修後の[[古鷹]]型と[[青葉]]型の見分け方であるが、二番煙突が細く、後部マストがカタパルトより後部に位置するのが古鷹型である。
#image(kako2.jpg)
近代化改修後の加古。次発装填装置付き四連装魚雷発射管やカタパルトなどが追加された。
太平洋戦争開戦時には第八艦隊第六戦隊に所属し、各地を転戦。
緒戦ではグァム島攻略作戦や第二次ウェーキ島攻略作戦に加わった。ジャワ方面での華々しい艦隊戦には参加しなかったが、1942年1月以降は南洋方面でその真価を発揮する。
第六戦隊はラバウル・サラモア・ブーゲンヴィルの各攻略作戦に相次いで参加。同年5月の珊瑚海海戦では[[古鷹]]とともに機動部隊護衛に参加。[[翔鶴]]の援護を行った。
1942年8月の第一次ソロモン海戦においては、僚艦共々その小柄な船体に秘められた攻撃的スペックをふんだんに生かし破竹の活躍を見せつける。
加古はまず魚雷でオーストラリア海軍の重巡キャンベラを撃沈。その後第八艦隊の各艦と共同でアメリカ海軍の重巡アストリア、クインシーを砲戦にて撃沈せしめる。
この戦いで第八艦隊は重巡4と駆逐1撃沈、重巡1駆逐1を大破せしめる『戦術的』大勝利を収めた((戦術的と書いたのは、敵機動部隊による反撃を恐れて本来の攻撃目的であった輸送艦隊の攻撃を放棄し、帰投についたため))。
しかし、攻撃からの帰路にあった8月10日7時6分、
旗艦・青葉からの指示もあり戦隊全体が警戒態勢を緩めていたところ、突如、右舷より魚影が接近。それは人知れず肉薄していた米潜水艦「S44(SS-155)」より放たれた雷撃であった。
咄嗟に反応し舵を切った加古のクルーであったが、元来の舵の効きづらさ、そして絶好の位置から放たれた雷撃をかわすことは出来ず、直撃。
三本もの雷撃を立て続けに小さな体に受けた加古は、もはや即死と言っても過言では無い状態であった。
加古の艦体は右舷方向に傾斜し、発電機も停止。
そして35分後の8月10日7時41分には、その船体は完全に海に没してしまっていたという。
それは、穏やかなカビエンの泊地まで、あと100浬というところであった。
艦長らの迅速な判断や僚艦の救助の速さもあって、乗員639名のうち、命を落としたものは34名にのみとどまったのが唯一の救いであろうか。
余談であるが、最後の艦長となった高橋雄次大佐(当時)は戦死することなく終戦まで生き延び、戦後、『鉄底海峡』という回想録を出版している。
開戦から沈没、そしてその後の後始末までを一艦長の視線で綴った面白いものなので、興味のある方は参考にされたし。
なお、この本には戦後に高橋艦長と、加古を撃沈したS-44のジョン・ムーア艦長との対談の様子も綴られている。
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*台詞一覧
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|~状況 |~台詞 |~関連する史実や元ネタ、解説など|
|自己紹介|古鷹型重巡の2番艦、加古ってんだ、よっろしくぅー!||
|秘書クリック会話①|ふぁ~、眠い|就役の遅れ=寝坊、ということだろうか|
|秘書クリック会話②|作戦会議?古鷹から聞くからさ……それじゃ、だめ?||
|秘書クリック会話③|はいはいはいはい!ちゃんと聞いてるから!スカート引っ張んないでぇ!|就役が遅れた原因は竣工直前にクレーン事故で船体を損傷したのが原因とされている|
|戦績表示時|提督に手紙が……起きてる起きてるよぉ||
|編成選択時|いよっしゃあ!あたしの出番だね|開戦時の第六戦隊は雑用めいた護衛任務ばかりをしていた。暇をもてあました結果、爆薬で魚を乱獲したり、上陸するたびにヤシの実を大量に調達してきたり、牧場の牛を勝手に狩って食ってお咎めを受けそうになったこともある。しかしその様相もミッドウェーの敗北を期に一変する。|
|装備時①|なんか、かっこいいぞ私、ふふん||
|装備時②|うぉお目が冴えてきた。力が漲ってきたよー||
|装備時③|よっしゃラッキー||
|>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)|
|ドック入り|だめ…だるい…艤装が…まぁいっか…||
|ドック入り(重傷)|あーマジで死ぬ…死ぬほど寝かせて||
|建造時|新しい艦が出来たという報告でーす||
|艦隊帰投時|作戦が完了したという報告…Zzz||
|出撃時|加古、出撃ぃ!古鷹、付いてきて|開戦時、第六戦隊では二番艦であったため、四番艦である古鷹より前を航行している/またそれ以前では旗艦として第六戦隊を率いていた時期もある|
|戦闘開始時|ぶっ飛ばす!||
|攻撃時|いっちょあーがりー||
|夜戦開始時|加古スペシャルを食らいやがれ!||
|夜戦攻撃時|古鷹、見てくれてた?|第一次ソロモンにおいて古鷹はトラブルにより艦隊からはぐれてしまっていたので加古の戦果をあんまり見てない|
|MVP時|あたしゃねぇ、やるときはやるんだよ。だから、帰ったらいっぱい寝かせてー!|史実において、第一次ソロモン海戦にて大活躍を果たしたものの、泊地に帰り着く寸前に被雷し沈没している/なお、最後の艦長である高橋大佐は酒豪である。それを踏まえるとなんか酔ってるような口調に聞こえなくもない|
|被弾小破①|やば、前に出すぎた||
|被弾小破②|砲台が吹っ飛んだぁ!?||
|被弾カットイン|こぉの~!変態野郎が!|私ではない|
|撃沈時(反転)|COLOR(white):昔から調子こいては、古鷹に怒られていたっけなぁ…||
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*同型艦
[[古鷹]]([[古鷹改二]]) ― &bold(){加古}
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*コメント
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