大淀

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#image(No183.jpg) &table_color(table3,#ddd){} |~大淀改|~2015年新年大淀改| |&image(No.183改.jpg)|&image(2015年新年Oh-淀.jpg)| #contents() ---- *CV 川澄綾子 ---- *Illustrator 藤川 ---- *解説:大淀型軽巡洋艦の運用ドクトリン 日露戦争以来帝国海軍の主要ドクトリンとされてきた漸減要撃作戦において、潜水艦は最初に敵艦隊と接触し、戦力を削ぐ役を受け持っている。 だが、潜水艦は隠密性を持つ代わりに索敵機能が非常に低かった。 大型の巡潜型では搭載偵察機を持った艦もあったが、これも通常の偵察機に比べると小型で性能が低く、また運用も非常に難しいものであった。 それを補うために帝国海軍は潜水艦に代わって高性能水上偵察機を用いて広範囲での索敵を行い、そして強力な通信能力をもって潜水艦に指揮を出す、潜水艦隊旗艦専用の巡洋艦を考案する。 それが巡丙型と呼ばれた大淀型である。 1939年度の海軍軍備増強計画であるマル四計画内では、老朽化した[[阿武隈]]以外の[[長良]]型と、[[夕張]]の6隻の軽巡洋艦の置き換えとして、同じ6隻の軽巡の新造計画が発令された。 そのうち4隻が&bold(){巡乙}と呼ばれる従来通りの水雷戦隊旗艦として設計された軽巡(詰まる話が後の[[阿賀野]]型である)、そして残る2隻が&bold(){巡丙}型として計画されている。 当初は基準排水量5000トン、主砲に12.7cm連装高角砲4基を備え、航空機6機を搭載する巡洋艦として計画されており、接近対艦戦闘を想定しないため魚雷兵装は一切搭載することはなかった。 だが技術会議において現場側の責任者から「12.7cm連装高角砲程度では敵艦と遭遇した際に打つ手がない」との意見が出て、大幅に設計が変更される。 この時に高い能力を有する水上偵察機の実現は不可能として、航空巡洋艦((艦これの航空巡洋艦とは異なり、蒼龍G6案や宇宙戦艦ヤマトの戦闘空母などのように、巡洋艦並みの砲撃能力を持つ空母のこと))や空母とした方が良いのではという意見もあったが、結局「航空巡洋艦は帯に短し襷に長しな艦になる」として通常の巡洋艦型として建造されることとなったのであった。 結果、航空機搭載数は変わらず、[[最上]]型から降ろされた15.5cm三連装砲2基と10cm連装高角砲4基を装備する、全長189m、基準量8146トンの軽巡となったのである。 だが、大淀が完成した頃には前述のドクトリンは既に崩壊していたのであった。 理由は漸減要撃作戦ドクトリンの崩壊などもあったが、その最大の理由は偵察の要となる高速水上偵察機の開発失敗であった。 大淀の艦載機である高速水上偵察機は、強行偵察のため戦闘機よりも高速であり、また10時間以上の偵察を可能とする、非常に高性能な水上偵察機である。 この要求をもとに川西航空機が設計、製造したのが川西「紫雲(E15K1)」であった。 高速性能を引き出すため大出力エンジンと、それが生む大トルクの対策に二重反転プロペラを採用。 さらに翼端の副フロートの引き込み機構や層流翼などの野心的な設計を多用した高性能偵察機として製造される。 しかし、そのあまりにも野心的な設計のために不具合も多く、期待された強行偵察可能な性能を発揮することはなかったのであった。 時流と艦載機の開発失敗による致命的な索敵能力不足のために、大淀はその産まれた理由を失ったのである。 #image(e15k-3s.jpg) 高い要求をクリアすべく設計されたが、結果的に失敗作であった「紫雲」 なお、巡丙二番艦の仁淀は太平洋戦争の勃発により、起工すらしないままに建造中止となっている。 ---- *史実情報 #image(oyodo_1943.jpg) 1943年2月28日、大淀は海軍呉工廠で竣工。横須賀鎮守府に編入される。日本軽巡中最大の大きさで、全長や排水量では重巡の[[古鷹]]型や[[青葉]]型を上回っているほどである。 艦体は阿賀野型のそれを拡大したもので、高速を求められる偵察巡洋艦のため、機関には阿賀野型や[[翔鶴]]型同様の高温高圧缶を採用。そのため39.5ノットという[[島風]]に匹敵する高速力を発揮できる。 阿賀野型と異なるのは水上偵察機6機を搭載できる艦後部の巨大な水上偵察機格納庫と、水上偵察機「紫雲」用の長大な2式1号10型カタパルトで、これが大淀の外見上での大きな特徴である。 この2式1号10型は圧縮空気を用い、それまでのカタパルトよりも高い射出能力を持ち、またそれまでのカタパルトには無かった短時間での連続射出を可能としたのであった。 だが、前述したように「紫雲」の開発失敗と時局の変化により、大淀は完成直後から既にその存在意義を失い、無用の長物となってしまう。 設計がそれまでの軽巡と大きく異なり艦隊の中でも継子のような存在の大淀は、惰性的に慣熟訓練が行われた後にトラック島方面へ回航。 その後半年以上に渡りトラック島からカビエン方面への4度に及ぶ戊号輸送作戦をはじめとして、ラバウル・ルオットなどへの輸送任務に従事することとなる。 1943年12月26日の戊三号作戦第二輸送では[[能代]]・山雲・秋月とともに宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊の輸送に従事した復路に敵艦載機群と遭遇。 カビエンの基地航空隊もすべての艦載機の排除は行えず、艦載機は輸送部隊に殺到。 だがカビエン港内を出た艦隊はふた手に別れ、全速を発揮しつつ対空戦闘を行い、多少の損害((至近弾および機銃掃射による損害と、50kg爆弾(不発)が着弾))艦載機群を振り切ることに成功する。 この対空戦闘で大淀は主砲の対空用砲弾300発をすべて消費してしまい、対水上艦用の砲弾から果ては演習弾までを使って対空砲撃を敢行。 また全速航行で艦橋の速度計が45ノットと言う速度を示したとの証言も残っている(射撃指揮所の速度計である。速度は射撃の精度にモロに影響するため、できるかぎり正確性を期している機材である) そして1944年2月10日、本国への召喚に伴いトラック泊地を発つ。トラック大空襲はこの7日後の出来事で、大淀は奇跡的に難を逃れたのであった 同年3月6日、一時帰国の後に行われたサイパンへの輸送任務を終えて横須賀へと帰投した大淀は突如改装を命じられた。 突然の改装は、当時の連合艦隊が抱えた問題に起因するものだった。 従来の連合艦隊旗艦は戦艦を用い、主力艦隊である第一艦隊を率いて、大艦隊決戦の際には先陣を切るのが通例であった。 日本海海戦における三笠も、ミッドウェイ海戦における[[大和]]も、これに従ったものであった。 だが連合艦隊の作戦海域が西部太平洋方面全域とインド洋の一部にまで広がった1943年頃には、この旧来の編成は不都合なものとなってきていたのだ。 また1942年以降連合艦隊旗艦となっていた大和型戦艦は停泊中でも大量の重油を食いつぶす艦で、燃料逼迫が表面化するととても旗艦には不向きな艦となってきていたのである。 そこで連合艦隊は独立行動を執る低燃費旗艦、若しくは陸上基地への連合艦隊の移設を計画したのである。 ここで白羽の矢が立ったのが、高い通信能力と広い艦内空間を持ち、艦隊の継子となっていた大淀であった。 大淀は艦後部の大型格納庫を連合艦隊司令部とし、また無用の長物と化した特殊カタパルトを重巡と同様の呉式二号に換装する改造を施され、3月31日に工事を終了する。 この際、大淀流転の最大の要因となった「紫雲」も降ろされ、代わりに零式水上偵察機2機が露天搭載された。 しかし、同日に連合艦隊長官であった古賀峯一大将が空襲の難を逃れるべくパラオを二式大艇で発った後、天候不良の中で座乗機が行方不明となる事態(海軍乙事件)が発生。 連合艦隊長官交替と連合艦隊再編のゴタゴタに巻き込まれ、結局次の長官となった豊田副武大将の搭乗と、連合艦隊旗艦就任は5月3日まで待つこととなったのであった。 なお当の豊田長官自身は「まるで日本海軍の足元を見られるようで、嫌だな」「戦死するなら、武蔵か大和のデッキで死にたい。こんな船の上ではいやだ」と苦言を呈していたとされている。 44年5月20日から発令された「あ号」作戦では木更津沖もしくは瀬戸内海の柱島泊地から戦闘指揮を出し、マリアナ沖海戦でも柱島沖からその指揮を担当している。 だが、大淀での連合艦隊指揮もまた不具合が多いとなり、結局連合艦隊司令部は中央部のある東京に近い横浜市日吉の慶応大敷地内の地下壕に移動。9月29日に大淀は約4ヶ月の連合艦隊旗艦任務を終えた。 大淀乗員からも連合艦隊旗艦解任は喜ばれた。連合艦隊旗艦は規則に厳格なため、それから解放されたためである。 大淀は44年10月19日に小沢治三郎中将率いる第三艦隊の第31戦隊旗艦に着任。松型駆逐艦の槇・杉・桐・桑を麾下に置き、翌日にはフィリピン方面へ向けて第三艦隊の機動部隊とともに日本本土を発つ。 当初第三艦隊の旗艦は通信設備の充実した大淀が就く予定であったが、小沢中将の意向により[[瑞鶴]]が旗艦となり、大淀は予備旗艦となったのである。 そして運命の捷一号作戦では小沢中将率いる陽動機動部隊の1隻として、10月25日のエンガノ岬沖海戦にてウィリアム・ハルゼー中将の米海軍機動部隊と対決。 早朝から襲いかかってきた100機を超える米軍機の群れに対し、大淀は対空射撃を実行。 戦闘の中で[[千歳]]と秋月が沈没。艦載機隊の攻撃により[[千代田]]も死に体となり艦隊より落伍と、大淀の周りから次々に僚艦は消えてゆく。 そしてついに敵機襲来から1時間後の午前9時半には旗艦瑞鶴が危険な状態に陥り、大淀への旗艦変更の信号が発令される。 艦載機隊の第二波攻撃により阻まれたものの、午前10時54分には小沢中将は死にかけの瑞鶴から大淀に移乗。瑞鶴が波間に消えていくのを看取っている。 その後、空母[[瑞鳳]]を新たに失った大淀含む小沢艦隊は、夕刻頃に松田千秋中将率いる四航戦([[伊勢]]・[[日向]])と合流した後に、敵機動部隊を撃滅すべく南下するも、接敵ならず奄美大島方面へと引き返す事となった。 10月27日に奄美大島に到着し、翌日に戦隊旗艦を解かれた大淀は再びフィリピンに戻り、敵の攻撃を逃れながらマニラ湾、ミリ、ブルネイとフィリピン近郊の各泊地を転々とする。 この頃の大淀はエンガノ岬沖海戦で消費した15.5cm主砲弾と10cm高角砲弾の慢性的不足に悩まされていた。 高角砲弾は同型砲を搭載する秋月型駆逐艦用の物を融通できたが、搭載艦の限られていた主砲弾はおいそれと補充できず、ブルネイに栗田艦隊旗艦の大和が入港した際に大和の副砲弾を譲渡してもらうまで、大淀は満足な主砲弾を搭載していなかった。 その後リンガ泊地、サンジャック、カムラン湾と南シナ海を流転した大淀だが、44年12月に礼号作戦が発動されると、[[足柄]]とともに木村昌福少将の麾下に編入される。 旗艦[[霞]]に率いられてミンドロ島米軍物資集積場へ向かうさなかの12月26日夜半、敵爆撃機隊と遭遇。 当時天候は晴れ、また月齢11((月齢0が新月、月齢7から8が半月、月齢15が満月))と非常に明るい月夜であったため、上空から丸見えの格好となった艦隊は爆撃機の攻撃を受け、対空戦闘の中で駆逐艦[[清霜]]が沈没。足柄はB-25の体当たり攻撃を受け、そして大淀もB-24から投弾された250kg爆弾が2発直撃、2発が至近弾となった。 だが、この爆弾はすべて不発弾となり((突然の日本艦隊襲来で、本来武器係の整備員がする信管装着を、パイロット自ら行ったのが原因とされている))、大淀は缶室一つが使用不能になる程度の被害で済んだのである((この2つの250kg爆弾は後に不活性処置がなされ、艦内神社に祀られた))。 大淀と足柄は米軍魚雷艇の攻撃を潜り抜けてミンドロ島サンホセ港の米軍物資集積場にたどり着くと、20分に渡りこれを砲撃。近隣の飛行場や港内の輸送艦にも砲弾を浴びせ、貨物船3隻を火災に追い込んだと記録している。 そして復路では清霜乗員の救助に向かった霞と朝霜を援護すべく、足柄ととも退避命令を無視して霞らを護るように、迎撃に出てきた魚雷艇を撃退。 その後帰投命令に従い霞と朝霜を残して足柄とともに帰投。この二隻も1時間半後に無事戦闘海域を離脱している。 年が明けた1945年2月10日には伊勢・日向らとともに北号作戦に参加。司令部に改装されていた後部格納庫の設備を撤去し、そこに重油などの重要戦略物資を詰めたドラム缶を満載して本土へと帰投した。 この頃には大淀は「幸運艦」と称されていたとされる。 2月20日には呉軍港へと帰投するも、すでに作戦行動可能な燃料もなかった大淀は呉軍港に係留されることとなった。 3月1日付けで練習艦になった大淀は、しかし同月19日の空襲による至近弾により艦体に破孔が開き、傾斜する被害を受ける。 被害を受けたのが呉港内だったため復旧作業が迅速に行われ沈没は免れたものの、ボイラーの3分の2が使用不能となり、機関課員を始めとして52名と少なくない死者が発生。 機関に重大障害を追った大淀はそのまま浮き砲台として、能美島方面の飛渡瀬に係留される。 なお近くの能美島には同19日の空襲でまた被害を負って、浮き砲台にされた[[利根]]の姿もあった。 7月24日の呉軍港空襲では500ポンド爆弾3~4発の直撃弾を出し、艦上部での大火災と浸水による傾斜が発生。これも乗員と近隣住民との懸命の作業でなんとか鎮火と復旧に成功している。 だが1945年7月28日の呉軍港大空襲によって呉軍港で果てた多くの艦船と同様に、歴戦の軽巡大淀も最後を迎えた。 午前10時の右舷艦橋付近への被弾による浸水により、みたび艦隊は傾斜。田口正一艦長は保ちなおそうと左弦への注水を命じたが、次々と波のように命中する爆弾やロケット弾に注水による傾斜復元が間に合わず、正午ごろに大淀は右舷側へ横倒しとなり、飛渡瀬の海に横腹を見せるように転覆したのである。 近隣住民の救助を受けたものの、24日の空襲と合わせて乗員223名が戦死した。 #image(oyodo_1945.jpg) 1947年に大淀は解体のため浮揚されるが、解体業者の「一隻ぐらいは生まれ故郷で解体してやりたい」との温情により、大淀は現地ではなく生まれ故郷である日立造船呉造船所((戦後民間に払い下げられた海軍呉工廠の後身))のドックにて解体された。 現在、大淀最期の地である飛渡瀬には大淀の慰霊碑と戦死者を祀るお堂が存在する。 前述の活躍のように、新鋭艦であるはずの大淀だが、その乗員練度は非常に高かった。 これは大淀乗員の多くが大淀就役前に沈没した[[比叡]]の旧乗員で、戦艦クラスの厳しい訓練の賜物であったのだ。 大淀の名は戦後の1991年1月、海上自衛隊のあぶくま型護衛艦3番艦おおよど(DE-231)に引き継がれた。 また幻の姉妹艦仁淀も姉に先立つ1973年にちくご型7番艦によど(DE-221)に引き継がれている。 ---- *台詞一覧 &table_color(table1,#ddd){} |~状況 |~台詞|~関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|提督、軽巡大淀、戦列に加わりました。艦隊指揮、運営はどうぞお任せください。| | |秘書クリック会話①|はい。お任せください|| |秘書クリック会話②|提督、そこは通信機ではありません。勝手に触られると、艦隊指揮に支障が出ます。|| |秘書クリック会話③|提督、その通信方法はどうなんでしょう。平文で良いかと思います。はい。|通信能力の高い旗艦仕様の艦だけあって、通信ネタが多め| |秘書クリック会話④|提督…秋の気配を感じますね。|秋季限定ボイス| |秘書クリック会話⑤|COLOR(white):提督、大淀をいつも大事にして下さって本当にありがとうございます。私、ずっと見ていたんですよ。気づいていました?|ケッコンカッコカリ後| |戦績表示時|提督、我が艦隊の情報を整理しました。|| |編成選択時|艦隊旗艦 大淀、出撃致します。|| |装備時①|私の改装ですか? ありがとうございます。|| |装備時②|そうですね。雷装を積みたいような、そうでもないような……。|本物の大淀は雷装は積んでいないが、艦娘化した際にどこかに搭載したのか、何故か雷撃可能。| |装備時③|計算通りです。|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |補給時|補給と兵站、大切ですね。|| |ドック入り|申し訳ありません。少し、後方に下ります。|| |ドック入り(重傷)|大変申し訳ありません。少しお暇を頂けますと幸いです。|| |建造時|新建造艦が完成致しました。|| |艦隊帰投時|艦隊、作戦終了です。お疲れ様でした。|| |出撃時|連合艦隊旗艦 大淀、抜錨します。|大和、[[伊401]]同様、旗艦でもないのに旗艦と言い張る。| |戦闘開始時|敵艦隊見ゆ。砲戦、用意。お願いします。|| |攻撃時|よーく狙って。てーッ。|| |夜戦開始時|礼号作戦を思い出す。全艦、突撃!|| |夜戦攻撃時|艦隊運動。そう、上手よ、皆|連撃・弾着射撃時も同じ| |MVP時|え、私の武勲が一番? あら、意外なこと。でも何だか誇らしいですね、うふふっ。|| |被弾時①|やだ……右に傾斜。注水傾斜復元を!|| |被弾時②|やっ!や、やられた!|| |被弾カットイン|くっ……やられました。でっでも、大淀沈みません、沈みは……しません。|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):排水急いで!え……ダメ……?ダメなの!?提督……ここまでのようです……また、いつかどこかで……きっと……。|彼女の最後の状況を反映しているようである。| |ケッコンカッコカリ|COLOR(white):提督、大淀をお呼びでしょうか?えっ、これを私に?ありがとうございます、提督。いつまでも、大切にします。|| &table_color(table2,#ddd){} |~時間|~台詞|~関連する史実や元ネタ、解説など| |00:00|-|| |01:00|-|| |02:00|-|| |03:00|-|| |04:00|-|| |05:00|-|| |06:00|-|| |07:00|-|| |08:00|-|| |09:00|-|| |10:00|-|| |11:00|-|| |12:00|-|| |13:00|-|| |14:00|-|| |15:00|-|| |16:00|-|| |17:00|-|| |18:00|-|| |19:00|-|| |20:00|-|| |21:00|-|| |22:00|-|| |23:00|-|| |放置時|-|提督、次の任務のお時間です。……って、提督?提督?聞いていらっしゃいます?ねえ。| ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=大淀/コメント)
#image(No183.jpg) &table_color(table3,#ddd){} |~大淀改|~2015年新年大淀|~2015年新年大淀改| |&image(No.183改.jpg)|&image(2015年新年Oh-淀.jpg)|&image(2015年新年Oh-淀改.jpg)| #contents() ---- *CV 川澄綾子 ---- *Illustrator 藤川 ---- *解説:大淀型軽巡洋艦の運用ドクトリン 日露戦争以来帝国海軍の主要ドクトリンとされてきた漸減要撃作戦において、潜水艦は最初に敵艦隊と接触し、戦力を削ぐ役を受け持っている。 だが、潜水艦は隠密性を持つ代わりに索敵機能が非常に低かった。 大型の巡潜型では搭載偵察機を持った艦もあったが、これも通常の偵察機に比べると小型で性能が低く、また運用も非常に難しいものであった。 それを補うために帝国海軍は潜水艦に代わって高性能水上偵察機を用いて広範囲での索敵を行い、そして強力な通信能力をもって潜水艦に指揮を出す、潜水艦隊旗艦専用の巡洋艦を考案する。 それが巡丙型と呼ばれた大淀型である。 1939年度の海軍軍備増強計画であるマル四計画内では、老朽化した[[阿武隈]]以外の[[長良]]型と、[[夕張]]の6隻の軽巡洋艦の置き換えとして、同じ6隻の軽巡の新造計画が発令された。 そのうち4隻が&bold(){巡乙}と呼ばれる従来通りの水雷戦隊旗艦として設計された軽巡(詰まる話が後の[[阿賀野]]型である)、そして残る2隻が&bold(){巡丙}型として計画されている。 当初は基準排水量5000トン、主砲に12.7cm連装高角砲4基を備え、航空機6機を搭載する巡洋艦として計画されており、接近対艦戦闘を想定しないため魚雷兵装は一切搭載することはなかった。 だが技術会議において現場側の責任者から「12.7cm連装高角砲程度では敵艦と遭遇した際に打つ手がない」との意見が出て、大幅に設計が変更される。 この時に高い能力を有する水上偵察機の実現は不可能として、航空巡洋艦((艦これの航空巡洋艦とは異なり、蒼龍G6案や宇宙戦艦ヤマトの戦闘空母などのように、巡洋艦並みの砲撃能力を持つ空母のこと))や空母とした方が良いのではという意見もあったが、結局「航空巡洋艦は帯に短し襷に長しな艦になる」として通常の巡洋艦型として建造されることとなったのであった。 結果、航空機搭載数は変わらず、[[最上]]型から降ろされた15.5cm三連装砲2基と10cm連装高角砲4基を装備する、全長189m、基準量8146トンの軽巡となったのである。 だが、大淀が完成した頃には前述のドクトリンは既に崩壊していたのであった。 理由は漸減要撃作戦ドクトリンの崩壊などもあったが、その最大の理由は偵察の要となる高速水上偵察機の開発失敗であった。 大淀の艦載機である高速水上偵察機は、強行偵察のため戦闘機よりも高速であり、また10時間以上の偵察を可能とする、非常に高性能な水上偵察機である。 この要求をもとに川西航空機が設計、製造したのが川西「紫雲(E15K1)」であった。 高速性能を引き出すため大出力エンジンと、それが生む大トルクの対策に二重反転プロペラを採用。 さらに翼端の副フロートの引き込み機構や層流翼などの野心的な設計を多用した高性能偵察機として製造される。 しかし、そのあまりにも野心的な設計のために不具合も多く、期待された強行偵察可能な性能を発揮することはなかったのであった。 時流と艦載機の開発失敗による致命的な索敵能力不足のために、大淀はその産まれた理由を失ったのである。 #image(e15k-3s.jpg) 高い要求をクリアすべく設計されたが、結果的に失敗作であった「紫雲」 なお、巡丙二番艦の仁淀は太平洋戦争の勃発により、起工すらしないままに建造中止となっている。 ---- *史実情報 #image(oyodo_1943.jpg) 1943年2月28日、大淀は海軍呉工廠で竣工。横須賀鎮守府に編入される。日本軽巡中最大の大きさで、全長や排水量では重巡の[[古鷹]]型や[[青葉]]型を上回っているほどである。 艦体は阿賀野型のそれを拡大したもので、高速を求められる偵察巡洋艦のため、機関には阿賀野型や[[翔鶴]]型同様の高温高圧缶を採用。そのため39.5ノットという[[島風]]に匹敵する高速力を発揮できる。 阿賀野型と異なるのは水上偵察機6機を搭載できる艦後部の巨大な水上偵察機格納庫と、水上偵察機「紫雲」用の長大な2式1号10型カタパルトで、これが大淀の外見上での大きな特徴である。 この2式1号10型は圧縮空気を用い、それまでのカタパルトよりも高い射出能力を持ち、またそれまでのカタパルトには無かった短時間での連続射出を可能としたのであった。 だが、前述したように「紫雲」の開発失敗と時局の変化により、大淀は完成直後から既にその存在意義を失い、無用の長物となってしまう。 設計がそれまでの軽巡と大きく異なり艦隊の中でも継子のような存在の大淀は、惰性的に慣熟訓練が行われた後にトラック島方面へ回航。 その後半年以上に渡りトラック島からカビエン方面への4度に及ぶ戊号輸送作戦をはじめとして、ラバウル・ルオットなどへの輸送任務に従事することとなる。 1943年12月26日の戊三号作戦第二輸送では[[能代]]・山雲・秋月とともに宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊の輸送に従事した復路に敵艦載機群と遭遇。 カビエンの基地航空隊もすべての艦載機の排除は行えず、艦載機は輸送部隊に殺到。 だがカビエン港内を出た艦隊はふた手に別れ、全速を発揮しつつ対空戦闘を行い、多少の損害((至近弾および機銃掃射による損害と、50kg爆弾(不発)が着弾))艦載機群を振り切ることに成功する。 この対空戦闘で大淀は主砲の対空用砲弾300発をすべて消費してしまい、対水上艦用の砲弾から果ては演習弾までを使って対空砲撃を敢行。 また全速航行で艦橋の速度計が45ノットと言う速度を示したとの証言も残っている(射撃指揮所の速度計である。速度は射撃の精度にモロに影響するため、できるかぎり正確性を期している機材である) そして1944年2月10日、本国への召喚に伴いトラック泊地を発つ。トラック大空襲はこの7日後の出来事で、大淀は奇跡的に難を逃れたのであった 同年3月6日、一時帰国の後に行われたサイパンへの輸送任務を終えて横須賀へと帰投した大淀は突如改装を命じられた。 突然の改装は、当時の連合艦隊が抱えた問題に起因するものだった。 従来の連合艦隊旗艦は戦艦を用い、主力艦隊である第一艦隊を率いて、大艦隊決戦の際には先陣を切るのが通例であった。 日本海海戦における三笠も、ミッドウェイ海戦における[[大和]]も、これに従ったものであった。 だが連合艦隊の作戦海域が西部太平洋方面全域とインド洋の一部にまで広がった1943年頃には、この旧来の編成は不都合なものとなってきていたのだ。 また1942年以降連合艦隊旗艦となっていた大和型戦艦は停泊中でも大量の重油を食いつぶす艦で、燃料逼迫が表面化するととても旗艦には不向きな艦となってきていたのである。 そこで連合艦隊は独立行動を執る低燃費旗艦、若しくは陸上基地への連合艦隊の移設を計画したのである。 ここで白羽の矢が立ったのが、高い通信能力と広い艦内空間を持ち、艦隊の継子となっていた大淀であった。 大淀は艦後部の大型格納庫を連合艦隊司令部とし、また無用の長物と化した特殊カタパルトを重巡と同様の呉式二号に換装する改造を施され、3月31日に工事を終了する。 この際、大淀流転の最大の要因となった「紫雲」も降ろされ、代わりに零式水上偵察機2機が露天搭載された。 しかし、同日に連合艦隊長官であった古賀峯一大将が空襲の難を逃れるべくパラオを二式大艇で発った後、天候不良の中で座乗機が行方不明となる事態(海軍乙事件)が発生。 連合艦隊長官交替と連合艦隊再編のゴタゴタに巻き込まれ、結局次の長官となった豊田副武大将の搭乗と、連合艦隊旗艦就任は5月3日まで待つこととなったのであった。 なお当の豊田長官自身は「まるで日本海軍の足元を見られるようで、嫌だな」「戦死するなら、武蔵か大和のデッキで死にたい。こんな船の上ではいやだ」と苦言を呈していたとされている。 44年5月20日から発令された「あ号」作戦では木更津沖もしくは瀬戸内海の柱島泊地から戦闘指揮を出し、マリアナ沖海戦でも柱島沖からその指揮を担当している。 だが、大淀での連合艦隊指揮もまた不具合が多いとなり、結局連合艦隊司令部は中央部のある東京に近い横浜市日吉の慶応大敷地内の地下壕に移動。9月29日に大淀は約4ヶ月の連合艦隊旗艦任務を終えた。 大淀乗員からも連合艦隊旗艦解任は喜ばれた。連合艦隊旗艦は規則に厳格なため、それから解放されたためである。 大淀は44年10月19日に小沢治三郎中将率いる第三艦隊の第31戦隊旗艦に着任。松型駆逐艦の槇・杉・桐・桑を麾下に置き、翌日にはフィリピン方面へ向けて第三艦隊の機動部隊とともに日本本土を発つ。 当初第三艦隊の旗艦は通信設備の充実した大淀が就く予定であったが、小沢中将の意向により[[瑞鶴]]が旗艦となり、大淀は予備旗艦となったのである。 そして運命の捷一号作戦では小沢中将率いる陽動機動部隊の1隻として、10月25日のエンガノ岬沖海戦にてウィリアム・ハルゼー中将の米海軍機動部隊と対決。 早朝から襲いかかってきた100機を超える米軍機の群れに対し、大淀は対空射撃を実行。 戦闘の中で[[千歳]]と秋月が沈没。艦載機隊の攻撃により[[千代田]]も死に体となり艦隊より落伍と、大淀の周りから次々に僚艦は消えてゆく。 そしてついに敵機襲来から1時間後の午前9時半には旗艦瑞鶴が危険な状態に陥り、大淀への旗艦変更の信号が発令される。 艦載機隊の第二波攻撃により阻まれたものの、午前10時54分には小沢中将は死にかけの瑞鶴から大淀に移乗。瑞鶴が波間に消えていくのを看取っている。 その後、空母[[瑞鳳]]を新たに失った大淀含む小沢艦隊は、夕刻頃に松田千秋中将率いる四航戦([[伊勢]]・[[日向]])と合流した後に、敵機動部隊を撃滅すべく南下するも、接敵ならず奄美大島方面へと引き返す事となった。 10月27日に奄美大島に到着し、翌日に戦隊旗艦を解かれた大淀は再びフィリピンに戻り、敵の攻撃を逃れながらマニラ湾、ミリ、ブルネイとフィリピン近郊の各泊地を転々とする。 この頃の大淀はエンガノ岬沖海戦で消費した15.5cm主砲弾と10cm高角砲弾の慢性的不足に悩まされていた。 高角砲弾は同型砲を搭載する秋月型駆逐艦用の物を融通できたが、搭載艦の限られていた主砲弾はおいそれと補充できず、ブルネイに栗田艦隊旗艦の大和が入港した際に大和の副砲弾を譲渡してもらうまで、大淀は満足な主砲弾を搭載していなかった。 その後リンガ泊地、サンジャック、カムラン湾と南シナ海を流転した大淀だが、44年12月に礼号作戦が発動されると、[[足柄]]とともに木村昌福少将の麾下に編入される。 旗艦[[霞]]に率いられてミンドロ島米軍物資集積場へ向かうさなかの12月26日夜半、敵爆撃機隊と遭遇。 当時天候は晴れ、また月齢11((月齢0が新月、月齢7から8が半月、月齢15が満月))と非常に明るい月夜であったため、上空から丸見えの格好となった艦隊は爆撃機の攻撃を受け、対空戦闘の中で駆逐艦[[清霜]]が沈没。足柄はB-25の体当たり攻撃を受け、そして大淀もB-24から投弾された250kg爆弾が2発直撃、2発が至近弾となった。 だが、この爆弾はすべて不発弾となり((突然の日本艦隊襲来で、本来武器係の整備員がする信管装着を、パイロット自ら行ったのが原因とされている))、大淀は缶室一つが使用不能になる程度の被害で済んだのである((この2つの250kg爆弾は後に不活性処置がなされ、艦内神社に祀られた))。 大淀と足柄は米軍魚雷艇の攻撃を潜り抜けてミンドロ島サンホセ港の米軍物資集積場にたどり着くと、20分に渡りこれを砲撃。近隣の飛行場や港内の輸送艦にも砲弾を浴びせ、貨物船3隻を火災に追い込んだと記録している。 そして復路では清霜乗員の救助に向かった霞と朝霜を援護すべく、足柄ととも退避命令を無視して霞らを護るように、迎撃に出てきた魚雷艇を撃退。 その後帰投命令に従い霞と朝霜を残して足柄とともに帰投。この二隻も1時間半後に無事戦闘海域を離脱している。 年が明けた1945年2月10日には伊勢・日向らとともに北号作戦に参加。司令部に改装されていた後部格納庫の設備を撤去し、そこに重油などの重要戦略物資を詰めたドラム缶を満載して本土へと帰投した。 この頃には大淀は「幸運艦」と称されていたとされる。 2月20日には呉軍港へと帰投するも、すでに作戦行動可能な燃料もなかった大淀は呉軍港に係留されることとなった。 3月1日付けで練習艦になった大淀は、しかし同月19日の空襲による至近弾により艦体に破孔が開き、傾斜する被害を受ける。 被害を受けたのが呉港内だったため復旧作業が迅速に行われ沈没は免れたものの、ボイラーの3分の2が使用不能となり、機関課員を始めとして52名と少なくない死者が発生。 機関に重大障害を追った大淀はそのまま浮き砲台として、能美島方面の飛渡瀬に係留される。 なお近くの能美島には同19日の空襲でまた被害を負って、浮き砲台にされた[[利根]]の姿もあった。 7月24日の呉軍港空襲では500ポンド爆弾3~4発の直撃弾を出し、艦上部での大火災と浸水による傾斜が発生。これも乗員と近隣住民との懸命の作業でなんとか鎮火と復旧に成功している。 だが1945年7月28日の呉軍港大空襲によって呉軍港で果てた多くの艦船と同様に、歴戦の軽巡大淀も最後を迎えた。 午前10時の右舷艦橋付近への被弾による浸水により、みたび艦隊は傾斜。田口正一艦長は保ちなおそうと左弦への注水を命じたが、次々と波のように命中する爆弾やロケット弾に注水による傾斜復元が間に合わず、正午ごろに大淀は右舷側へ横倒しとなり、飛渡瀬の海に横腹を見せるように転覆したのである。 近隣住民の救助を受けたものの、24日の空襲と合わせて乗員223名が戦死した。 #image(oyodo_1945.jpg) 1947年に大淀は解体のため浮揚されるが、解体業者の「一隻ぐらいは生まれ故郷で解体してやりたい」との温情により、大淀は現地ではなく生まれ故郷である日立造船呉造船所((戦後民間に払い下げられた海軍呉工廠の後身))のドックにて解体された。 現在、大淀最期の地である飛渡瀬には大淀の慰霊碑と戦死者を祀るお堂が存在する。 前述の活躍のように、新鋭艦であるはずの大淀だが、その乗員練度は非常に高かった。 これは大淀乗員の多くが大淀就役前に沈没した[[比叡]]の旧乗員で、戦艦クラスの厳しい訓練の賜物であったのだ。 大淀の名は戦後の1991年1月、海上自衛隊のあぶくま型護衛艦3番艦おおよど(DE-231)に引き継がれた。 また幻の姉妹艦仁淀も姉に先立つ1973年にちくご型7番艦によど(DE-221)に引き継がれている。 ---- *台詞一覧 &table_color(table1,#ddd){} |~状況 |~台詞|~関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|提督、軽巡大淀、戦列に加わりました。艦隊指揮、運営はどうぞお任せください。| | |秘書クリック会話①|はい。お任せください|| |秘書クリック会話②|提督、そこは通信機ではありません。勝手に触られると、艦隊指揮に支障が出ます。|| |秘書クリック会話③|提督、その通信方法はどうなんでしょう。平文で良いかと思います。はい。|通信能力の高い旗艦仕様の艦だけあって、通信ネタが多め| |秘書クリック会話④|提督…秋の気配を感じますね。|秋季限定ボイス| |秘書クリック会話⑤|COLOR(white):提督、大淀をいつも大事にして下さって本当にありがとうございます。私、ずっと見ていたんですよ。気づいていました?|ケッコンカッコカリ後| |戦績表示時|提督、我が艦隊の情報を整理しました。|| |編成選択時|艦隊旗艦 大淀、出撃致します。|| |装備時①|私の改装ですか? ありがとうございます。|| |装備時②|そうですね。雷装を積みたいような、そうでもないような……。|本物の大淀は雷装は積んでいないが、艦娘化した際にどこかに搭載したのか、何故か雷撃可能。| |装備時③|計算通りです。|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |補給時|補給と兵站、大切ですね。|| |ドック入り|申し訳ありません。少し、後方に下ります。|| |ドック入り(重傷)|大変申し訳ありません。少しお暇を頂けますと幸いです。|| |建造時|新建造艦が完成致しました。|| |艦隊帰投時|艦隊、作戦終了です。お疲れ様でした。|| |出撃時|連合艦隊旗艦 大淀、抜錨します。|大和、[[伊401]]同様、旗艦でもないのに旗艦と言い張る。| |戦闘開始時|敵艦隊見ゆ。砲戦、用意。お願いします。|| |攻撃時|よーく狙って。てーッ。|| |夜戦開始時|礼号作戦を思い出す。全艦、突撃!|| |夜戦攻撃時|艦隊運動。そう、上手よ、皆|連撃・弾着射撃時も同じ| |MVP時|え、私の武勲が一番? あら、意外なこと。でも何だか誇らしいですね、うふふっ。|| |被弾時①|やだ……右に傾斜。注水傾斜復元を!|| |被弾時②|やっ!や、やられた!|| |被弾カットイン|くっ……やられました。でっでも、大淀沈みません、沈みは……しません。|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):排水急いで!え……ダメ……?ダメなの!?提督……ここまでのようです……また、いつかどこかで……きっと……。|彼女の最後の状況を反映しているようである。| |ケッコンカッコカリ|COLOR(white):提督、大淀をお呼びでしょうか?えっ、これを私に?ありがとうございます、提督。いつまでも、大切にします。|| &table_color(table2,#ddd){} |~時間|~台詞|~関連する史実や元ネタ、解説など| |00:00|-|| |01:00|-|| |02:00|-|| |03:00|-|| |04:00|-|| |05:00|-|| |06:00|-|| |07:00|-|| |08:00|-|| |09:00|-|| |10:00|-|| |11:00|-|| |12:00|-|| |13:00|-|| |14:00|-|| |15:00|-|| |16:00|-|| |17:00|-|| |18:00|-|| |19:00|-|| |20:00|-|| |21:00|-|| |22:00|-|| |23:00|-|| |放置時|-|提督、次の任務のお時間です。……って、提督?提督?聞いていらっしゃいます?ねえ。| ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=大淀/コメント)

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