夜食の時間
「殺しあえ、か…」高いビルの上。普通の人間であれば足が竦むような高所の、しかも手すりも何もない屋上の端。薄汚れた白い服を纏った男は、その風景に恐れることもなく冷静に周囲を見通していた。その鍛え上げられた肉体から発せられる気は並大抵のものではないことを示すほどだ。しかしその白い髪は何かしらの病気を患っていたことを伺わせる。彼の名はトキ。世紀末の世界において名を馳せた、暗殺拳を繰る拳士である。しかし、目の前に広がる光景は世紀末のそれではない。どうみても核戦争以前の、平和だった世界の頃の街並みだ。ここは死後の世界なのか、あるいは自分は死ぬことなく何者かに連れ去られたのか。考えても分からない。まずは他の参加者を見つけ出し、情報を集めることが先決だ。無論、彼の中には殺し合いに乗るという選択肢など存在しない。相手が乗っている者であれば相応の対応をしなければならないが、そうでないものであればむしろ守っていかねばならない。 下には殺し合いの場とは思えない、多くの人が歩き、話し、過ごすというとても懐かしい空気の営みが見える。明かり、喧騒、全てが懐かしいものだ。バーチャル空間と言ったか。それが本当なら如何ほどの技術を、この主催者は持っているのだろうか。「…!?」だが、次の瞬間、その街の中に、異様なほど場違いでそれでいて禍々しい空気が混じっているのを感じ取った。まるで平和な村に、あと数分もしないうちにモヒカンの軍勢が襲撃をかけようとしているかのようなざわつき。次の瞬間、トキはその屋上をそのまま飛び降り、その気配の元を目指して駆け出した。◆それと時を同じくした頃。金髪の縦ロールを揺らしながら、少女は駆けていた。偶然にもその場所は白き聖者と同じ目的地。巴マミ。見滝原の街を守る魔法少女。人を守るために戦いを続ける彼女には、当然殺し合いなどというふざけたものを許せるはずもなかった。ゆえに彼女には殺し合いに乗るなどといった選択肢は存在しない。
街の風景は見滝原のそれではない。所々にある看板や標識を見るに、どうやら東京を模したもののようだ。バーチャル空間と言ったか。街行く人々も周りの建物も、実物にしか見えない。一体どんな技術なのか。そんなことも頭をよぎったものの、ある事実に気付いたとき、そういった思考の全てが消し飛んだ。現在地はそこそこ開けた空間。きっと昼であれば公園のような場所となる広場が見える。そして目指す先、どうやら国際展示場らしき場所が視界に入る。巴マミが走る理由。身を魔法少女の衣装に包んだ彼女は、オレンジに輝く宝石をその手に掲げながら呟く。「…この中ね。魔女の結界が張られているのは」◆そこはまるで異常な空間。さながら御伽噺のように積み上げられた大量のお菓子。建物、扉、道、置物。全てがお菓子、お菓子、お菓子。そして、そこに蠢く異形の生き物。いや、果たして生き物なのだろうか。細く棒のような脚。何重にも円の重なった、おそらく顔に位置する部位の模様。体には赤い斑。それが大量に集い、一人の人間を取り囲んでいた。人間は動かない。年はまだ成人していないほどの少女。さっきまではこの生き物達はこの空間を、お世辞にも速いとはいえない速度で走るこの少女を追っていた。そして、やがて疲れ果て倒れこんだ少女を、この生き物、使い魔たちはこの開けた空間に連れてきたのだ。使い魔たちは巨大な椅子と机の近くで蠢く黒い魔力を見守り続ける。そこにまるで孵化するように生まれ出たのは、キャンディの様な頭部に円らな目の、一見すると人形と間違えてしまいそうな物体。愛らしい姿だが、しかしまぎれもなく魔女と呼ばれる存在であるそれ。それ、お菓子の魔女はふわふわと浮き上がり、倒れて動かない少女の近くに寄る。使い魔たちはそれに合わせて少女から距離を取った。布のような手でツンツンと突くお菓子の魔女。しかし少女は身動き一つとらない。次の瞬間、魔女の体が膨れ上がり、異形の姿に変化する。体には使い魔と同じ斑模様。花型の鼻。頭には赤と青の羽。風船のように膨れ上がった顔面に、長い胴体。これまたファンシーな姿をしているが、口を開けばそこには鋭い牙が生え揃っている。第2形態へと姿を変えたお菓子の魔女は、改めてその動かない少女に、鼻らしき部位を近づけ、匂いをかぐような行動を取る。そして、次の瞬間、その巨大な口を開き、その意識を依然として取り戻さない少女を、一口に飲み込んだ。
● く う く う お な か が な り ま し た○「…っ?!」トキは、その空間、国際展示場の最も広い空間の扉の前にいた。謎の空気をたどってたどり着いた場所がここだったのだ。だが、扉に手をかけた瞬間。おそらく一瞬だろう。それまでとは違うまた異質な気を感じたのだ。それは、歴戦の戦士として名を馳せたトキですらも身震いをしたほどのもの。しかし、だからといって怖気づくような男ではない。扉を少し開き、中の様子を伺う。無人の空間。明かりは、月が内部を微かに照らすほどのものしかないがトキにはそれだけで十分だ。そしてその中心地点。倒れている少女の姿を、トキは捉えた。慎重に、ゆっくりと中に入る。人の気配はない。この男を前にして気配を隠せるものなど、そうはいないだろう。少なくともトキに感じとることのできる異常は見当たらない。その事実を確認したトキは、一気に少女に駆け寄った。「…息はある、か」肉体には疲労の色が強く見られるが、外傷はない。せいぜい手に刺青のような痣が見えるくらいだ。だが、その背に触れたとき、少女の体の気が不自然に乱れているのを感じた。 そう、まるで重い病でも患ったかのような―――バンッと、トキの入ってきたものとはまた別の扉が勢いよく開かれた。見ると、マスケット銃を構えた少女が周囲を慎重に伺っている。そして、こちらの姿を視認したとき、警戒するようにゆっくり、慎重に近寄ってきた。「よせ。こちらは通りがかりにこの少女を保護しただけだ」「―――何かここで異常なことが起こりませんでしたか?変な怪物に襲われたとか、気がついたら自分がここにいたとか」「いや、確かにこの周辺で変な空気を感じ取ったのは事実だが、ここについてからは特に何か起こったということはないな」「……そうですか。…もしかしてあなたも?」「ああ、参加者だ」少女、巴マミは何か腑に落ちないといった表情を浮かべつつ、マスケット銃を収める。
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