天津風改

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史実情報


陽炎型駆逐艦の中でも「雪風」や「浜風」、「磯風」などと並び、最も苛烈な戦歴を持つ艦の1隻として有名な艦である。
直ぐ上の姉である「雪風」が「奇跡の駆逐艦」であるならば、「天津風」は「不屈の駆逐艦」と言えよう。
艦名の「天津風」とは「高い天空に吹く風」のこと。百人一首の「天津風 雲の通ひ路吹き閉ぢよ 乙女の姿しばしとどめむ」(僧正遍照)でも使われているため、古典好きにもよく知られている言葉だろう。

1937年度予算(マル3系計画)の第25号艦として予算申請され、1940年10月26日、海軍舞鶴工廠にて陽炎型9番艦として竣工する。
基本的な兵装などは他の陽炎型と変わらないものの、通常の陽炎型が蒸気圧30気圧・蒸気温度350℃のボイラーを装備していたのに対し、「天津風」は蒸気圧40気圧、蒸気温度400℃の新設計の高温高圧ボイラーを採用している。
これは次ぐマル4計画で承認され、同じく舞鶴工廠で建造される高速重雷装の、所謂丙型駆逐艦のボイラーのテストベッド艦に選ばれたためでもある。
艦娘の天津風が島風の意匠を汲んだ、プロトタイプ的な印象を持っているのもこのためだと言える。
尚、タービンや推進器などは通常の陽炎型と同様のため、島風ほどの高速は持ち合わせなかったが、高温高圧缶の恩恵で航続力が他の陽炎型より300海里も伸びている。

太平洋戦争時は第2水雷戦隊第16駆逐隊に初風、雪風、時津風などとともに在籍。初代艦長となったのは、後に最後の「矢矧」艦長を務める原為一少佐。
戦争初期は旗艦神通と行動を共にすることが多かった。
緒戦ではフィリピン攻略作戦に従事し、レガスビー攻略作戦時には龍驤によるダバオ空襲の援護、艦載艇護衛のためダバオ市内への艦砲射撃などを行っている。
(この時の艦砲射撃で市内のガソリンタンクが炎上し、協定違反だとして陸軍と一悶着起こしてしまったとも)
その後は蘭印方面に転戦し、メナド、ケンダリー、アンボンの各攻略作戦に従事。1942年2月26日にはボルネオ島沖にて蘭病院船オプテンノール号(後の日本天応丸・第二氷川丸)を拿捕、護送している。
翌日からはじまったスラバヤ沖海戦では第二水雷戦隊の僚艦とともにABDA艦隊に対し雷撃を行ったものの、指揮官である田中少将のアウトレンジ戦術が原因の命中率の低下、酸素魚雷の早発問題による自爆などの悪条件も重なり、戦果は挙げられなかった。

その後は第16駆逐隊の僚艦らと共に蘭印方面にて対潜哨戒任務にあたり、3月1日には神通を攻撃した米潜「シール(SS-183)」もしくは「パーチ(SS-176)*1」に爆雷攻撃を敢行。
また同日に会敵した蘭潜「K-10」を初風と共同で撃沈する快挙を上げている。
この他に3月8日に米潜「シャーク (SS-174)」を撃沈しているとする原艦長の証言もあるが、米軍資料とは異なっている*2ため信憑性は薄い。
3月下旬には豪領クリスマス島攻略作戦にも参加し、同作戦で米潜の攻撃を受け大破した「那珂」のシンガポール曳航の護衛任務にも当たった。
6月のミッドウェー海戦では「天津風」はミッドウェー島攻略部隊を搭載した輸送船団の護衛に従事。炎上する「赤城」を遠巻きに視認したとされている。
7月14日、第16駆逐隊は第2水雷戦隊隷下から離れ、新たに「長良」を旗艦とする第3艦隊第10戦隊に配属される。

1942年8月以降のソロモン海の戦いにも勿論参加しており、同月24日の第2次ソロモン海戦においては「龍驤」「利根」「筑摩」らで構成された陽動艦隊の護衛に就き、ガ島へと赴いた。
結果、米空母「サラトガ(CV-3)」「エンタープライズ(CV-6)」艦載機の攻撃で「龍驤」は大打撃を蒙り、自力での航行が不可能となる。
「天津風」は「時津風」とともに「龍驤」曳航を試みたものの、浸水が酷いことや米陸軍の重爆による攻撃が行われたことなどから断念。両艦は「利根」とともに「龍驤」乗員や艦載機搭乗員の救助に務めた後、「龍驤」を雷撃処分した。
その後も「雪風」とともに深夜の島嶼砲撃やガ島支援作戦などに従事。10月24日の南太平洋海戦では、敵艦載機の攻撃で飛行甲板を損傷した「翔鶴」所属の艦載機が次々不時着水する中、搭乗員救助に勤めている。

11月12日の第三次ソロモン海戦第一夜戦にもガ島砲撃部隊の1隻として参加。
夕立」が単艦で戦場を引っ掻き回し、敵味方を大混乱に陥れた中、「天津風」も米艦隊に対し雷撃を敢行。少なくとも米駆逐艦「バートン(DD-559)」を撃沈したとされている。
更に探照灯を照射して「霧島」や「長良」麾下の僚艦とともに敵艦隊を攻撃するも、その探照灯照射が原因で敵艦隊からの集中砲火を浴びる。
「天津風」は第2缶室に被弾し、左舷に14度傾斜。冠水と被弾によるボイラー停止。それに加え操舵装置の故障や艦上部構造物への被害など、戦死者45名にものぼる多大な損害を受けている。
「天津風」はなんとか人力による応急操舵に切り替えを行った後、命からがらアイアンボトムサウンドを離脱する。
この間に「天津風」には沈没認定がくだされており、「天津風」が泊地に帰投すると「よくぞ生きて帰った!」と僚艦に歓迎されたと言う。
だが原艦長は多くの戦死者を出してしまったことで、気が気では無かったという。
(なお、「天津風」の攻撃が米艦隊旗艦の重巡「サンフランシスコ(CA-38)」を撃破、米艦隊司令部を撃滅したとする資料もあるが、この攻撃も「比叡」「霧島」はたまた「夕立」の物ではないかとも言われており、真相は現在を持ってしても不明)

トラック泊地に寄港した満身創痍の「天津風」は、同地で工作艦「明石」の応急修理を受けた後、本土へ単艦で帰還。翌1943年1月まで呉工廠にて修理を受けている。
この本土帰投後に原艦長も「天津風」艦長から解任され、「時雨」や「五月雨」で構成された第27駆逐隊の司令に着任している。

同年2月には戦線復帰し、「鈴谷」護衛の任を兼ねてトラック泊地へと帰還。
これ以降はトラック島からの船団護衛任務やハンサ、ウエワク方面の輸送に従事し、2月17日にはウエワクにて米潜水艦の攻撃で大破し、艦橋含む艦首部を切断した「春雨」を「浦風」とともにトラック泊地へ曳航している。
8月と12月には整備のため一時本土に帰投してもいる。

1944年1月11日、「天津風」は「雪風」「千歳」とともに『ヒ31船団』の護衛のためにシンガポールへと向かう。
これに先立つ1月10日、「天津風」艦長じゃ田中正雄中佐から新たに菅明次大佐に変更となり、シンガポールでの交代する予定が立てられた。
しかし、この辞令は発令されただけに終わり、菅大佐が「天津風」に着任することはなかった。
その理由は、菅大佐の前任艦であった「」が船団護衛中に米潜の攻撃を受け沈没。菅大佐もまた「漣」と運命を共にしたためである。
そして「天津風」にもこの『ヒ31船団』の護衛は、運命の転換点となった。
1月16日の夕刻、マニラ沖の南シナ海にて潜水艦哨戒にあたっていた「天津風」は、浮上中の米潜「レッドフィン(SS-272)*3」を発見。砲撃で、撃沈しようとするも逆に「レッドフィン」の魚雷による反撃を受け、左舷第一煙突直下に被雷する。
第一ボイラー室は瞬く間に全滅。直後に荒天で損傷を受けた艦体が断裂し、第一砲塔や艦橋を含む艦首部分が海中へと没し、古川文治第16駆逐隊司令ら34名も艦首部分から脱出したのを最後に行方不明となってしまう。
かろうじて田中艦長は艦後部に乗り移って生存、応急修理にも成功したものの、程なくして「天津風」は残存した第二ボイラーも停止し、完全に「天津風」は航行不能となった。
「天津風」は救援緊急無電を送るものの、天測機材や海図を艦体前部とともに喪失していたため正確な測位が行えず、100海里もズレた位置の座標を被雷位置として送信してしまい、友軍に発見されることはなかった。
この頃には攻撃による死亡者は74名にのぼっていると確認できたらしい。
それから一週間も「天津風」は漂流を続けたが、乗員の体力と精神が限界になっているのを感じた田中艦長の決断により、会敵の危険を孕みながらも電波による位置測定を開始。
そこから正確な位置を割り出し、座標を送信する。
その日のうちに確認に向かった一式陸攻が「天津風」艦尾部分を発見。その後航空隊の誘導で合流した二等駆逐艦「朝顔」と「第19駆潜艇」が「天津風」の艦尾を曳航し、「天津風」は死地を脱した。
「天津風」はサンジャック港、サイゴン港を経て1月30日、『ヒ31船団』の目的地であったシンガポールへ曳航されたまま入港。ここで応急修理を受けることとなった。

応急修理後の「天津風」は、本来の姿から見れば不格好極まりなく、惨めな姿としか言えなかった。
本来第一煙突のある部分に険しく切り立った仮艦首が設置され、その直後の第一魚雷発射管の位置に一昔前の商船のような露天の仮艦橋が設置されている、奇妙な外観の駆逐艦となってしまった。
勿論射撃方位盤や測距儀のようなものは無く、それどころか正確な航海に必須な装備と言えるジャイロコンパスすらも無く、旧来の磁気コンパスに頼らざるをえない状況にまで追い詰められていたのだ。
第一ボイラーを失ったために速力も20kt程度までに落ち、また武装も主砲2基と対空機銃のみの武装となっている。

修理は丸1年後の1945年1月まで行われ、翌2月には第5代艦長(実質は第3代艦長)に若干25歳の森田友幸大尉が艦長として就任している。
森田艦長は前述のとおり25歳と帝国海軍史上最年少の艦長であったものの、その直前まで歴戦の駆逐艦「」の水雷長としてレイテ沖海戦や礼号作戦にも参加した猛者であった。
森田艦長の着任と前後して日本本国から「天津風」修理のための本国回航命令が下り、現地艦隊指揮官であった福留中将がシンガポール残留提案を示すも、森田艦長もまた「天津風」回航を決定。
1年間も実戦から離れていた乗員に対し新任艦長は練度を取り戻すために猛訓練を課し、乗員も最初はまごついたものの直ぐに勘を取り戻し、1ヶ月も経たずして士気も上がっていった。


「天津風」がシンガポールを経ったのは1945年3月17日。同地から本土の門司まで向かう『ヒ88J船団』の1隻としてであった。
『ヒ88J船団』は沖縄戦を前にしてシンガポールに残った日本の輸送艦と海軍艦艇をかき集め、南方からの最後の輸送便として送り出された船団で、「天津風」の他に輸送船7隻、海防艦6隻から構成される大規模船団であった。
「天津風」は当初その戦闘力が疑問視され、護衛艦艇ではなく護衛される側の輸送艦扱いで船団に組み込まれていた。
しかし実際には護衛艦隊の輪形陣に組み込まれ、戦闘力を持った艦艇とみなされていたようである。

船団の先行きは出港後からすでに暗雲が立ち込めていた。出港後いきなりシンガポール海峡の出口でタンカー「さらわく丸」が航空敷設機雷に触雷し離脱する。
その後サンジャックまでは潜水艦が行動しにくい沿岸ギリギリの浅瀬を航海するなどして難を凌ぎ、サンジャック港で同港行きの輸送艦3隻を分離し、駆潜艇を代わりに船団に加える。
次の寄港地ニャチャンでは先行し、既に全滅していた『ヒ88I船団』の護衛の海防艦と駆潜艇を新たに隷下に加え、船団は北上した。
そしてここからが地獄の海の始まりであった。

ニャチャンを出港した2時間後の3月28日朝、米陸軍の爆撃機による空襲と米潜の立て続けの雷撃でタンカー2隻を喪失。
既に護衛すべき船は1隻となり、護送船団としての体をなしていない船団にも米軍は攻撃を執拗に続け、29日明け方には「第88号海防艦」が米潜の攻撃により轟沈。
同日正午には米陸軍のB-25爆撃機が船団に反跳爆撃を加え、最後のタンカー「海興丸」「第18号海防艦」がそれぞれ轟沈する。
「天津風」自身はこの時「海興丸」の護衛を海防艦に任せてスコールに身を隠し、スコールの中から対空戦闘を実施。敵機2機にいくらか損害を与えていたという。
護衛すべき船を失った護衛艦艇は仕方なく海南島を目指すが、米軍は執拗にを狙い続けた。
「天津風」も同日の日没以降に幾度と無く米潜の攻撃を受けていたが、「天津風」急ごしらえの切り立った艦首が立てる大波が速力を撹乱させたために、魚雷はすべて外れてしまっている。
午後9時には「天津風」は護衛隊への接触をはかったPBYカタリナ飛行艇をなんとか機銃掃射にて撃墜したが、その日の夜間にはまた「第130号海防艦」が戦没した。

3月30日、海南島の楡林港に辿り着いた護衛艦艇群は休息の間もなく、ここでもまたB-25の反跳爆撃による攻撃を受けている。
山を超えてやってくるB-25に爆撃照準の隙を与えないようにとの森田艦長の判断で、できるだけ山の近くに投錨した「天津風」は不発弾が1発当たっただけで済んだものの、港内に停泊していた「第26号海防艦」は大破、航行不能となってしまった。
翌日、輸送船団としての機能を喪失していた『ヒ88J船団』はこの地で解散され、手負いの「天津風」も含む護衛艦艇は近場の香港へと移動することとなる。

4月2日、香港に到着した護衛艦艇は同地から門司へと向かう『ホモ03船団*4』の護衛に充当される。
『ホモ03船団』は出港前には手を出してこなかった『ヒ88J船団』の時と異なり、出港前から連日のように米軍の爆撃を受ける羽目となる。
4月3日の空襲では「天津風」は大した被害を受けなかったが、僚艦の海防艦「満珠」が轟沈してしまった。
この翌日の4日、「天津風」は空襲警報のたびに煙幕を焚いて敵機をやり過ごす方法を取り始め、その間に「満珠」から譲り受けた25mm単装機銃2挺と13㎜単装機銃1挺を艦に設置。
「天津風」は応急修理で増設されたものと合わせて25mm三連装機銃2基、25mm単装機銃3挺、13㎜単装機銃3挺の凶悪な対空火力を得たのだ。
その日の夕刻に船団は門司を目指して出港する。
香港から門司は平時ならば大した距離のない航路で、数日かそこらで片道の航行は可能である。
だが敗戦間際まで追い詰められた日本にとっては、この取るに足らない近海の航路すらも修羅の海でしかない。
4月5日には2隻の輸送船がすべて空襲によって沈没し、護衛本隊と別れた「天津風」は駆潜艇と共に後に沈んだ「甲子丸」の乗員救助を行う。
そして救助した乗員を香港にとんぼ返りする駆潜艇に預けた後、「天津風」は独り本隊へ合流を図る。

『ホモ03船団』とも分離した天津風は4月6日、荒天の影響で無線機が故障して僚艦と連絡がとれなくなり、孤独の旅路を歩むこととなった。
そしてこの瞬間にもB-25爆撃機を駆る米陸軍第345爆撃大隊が、B-24の偵察結果を元に『ホモ03船団』残存艦艇を狩る準備を始めていた。
同爆撃隊は早々に先行する本隊の海防艦2隻を始末し、戦意が高揚していた中で「天津風」を発見。第500中隊のうち3機の小隊が「天津風」に襲いかかってきた。
「天津風」は主砲で敵を怯ませ、対空機銃で敵機を撃墜する方法を取る。小隊の反跳爆撃を辛くも躱した「天津風」はB-25に向かい機銃を掃射。小隊3番機を撃墜している。
第2波もまた爆撃そのものは躱したものの、敵機の機銃掃射で25mm三連装機銃の銃手が死亡、負傷者も続出する。
対空能力を大幅に失った「天津風」は、更に間髪入れず襲いかかる第3波の爆撃で放たれた爆弾の1つが第2、第3主砲塔の合間に直撃。主砲が沈黙する。唯一の救いは、敵1機を道連れに出来たことだろう。
そして続く第4波で爆弾2発が後部電信室、補器室に命中し、爆発。艦内への浸水が引き起こされ、無線機は失われ、機関と舵が故障した。
それは「天津風」の命運が尽きたことを宣告するものであった。
だが「天津風」と乗組員はその命運すらも覆して、航行を続けた。
乗員はバケツリレーで艦内火災を消し止め、また煙幕とウェス*5を燃やして擬似的な火災を引き起こして、死にかけに見せかけるなどの努力と奇策の末に「天津風」はなんとか形成を立て直したのだ。
再び襲い掛かるB-25編隊を奇跡的に何の被害もなく退けた「天津風」は、浸水も重なって火災を鎮火させることに成功。
また海水の混入した機関を艦長の指示で無理やり始動させ、人力による操舵でなんとか死にかけの艦を厦門まで自力航行させている。

厦門入港に際して海図に機雷原の位置が書き込まれていなく、やむなく艦を停止させ、陸上基地とやりとりをするトラブルこそあったものの、いつの間にか機雷原を抜けていた「天津風」。
しかし機関を停止させたのが仇となり、海水を含んだ蒸気タービンは焼きつきを起こし、打ち込んだ仮拵えの錨もまた「天津風」をつなぎとめることは無理だった。
果たして「天津風」は厦門島近辺を漂流した末に、付近の岩礁に擱座。
座礁直後に大陸匪賊の襲撃も受けたため、匪賊による「天津風」略奪の危険性を鑑み、また機能回復は絶望的とされた事からも、森田艦長は「天津風」の処分を決意。
かくて「天津風」は1945年4月10日、軍艦旗を降ろされ、厦門の海岸にて爆雷の自爆により爆破処分された。
「天津風」最後の航海で亡くなった36名の乗員の死体は浜辺で荼毘に付されたと言う。

台詞一覧


状況 台詞 関連する史実や元ネタ、解説など
自己紹介 いい風来てる? 次世代型駆逐艦のプロトタイプ、 あたし、天津風の出番ね。 天津風の成功を踏まえ、新型缶を搭載した次期主力駆逐艦こそ、重雷装高速駆逐艦「島風」である。
秘書クリック会話① どういう風の吹き回しかしら。
秘書クリック会話② いい風ね。
秘書クリック会話③ やだ、髪は触んないでよ。吹き流しが取れちゃうでしょ。
戦績表示時 どんなふうなの?…ふぅ~ん。まぁまぁね。
編成選択時 第十六駆逐隊、天津風。抜錨よ!
装備時① あら…いいじゃない
装備時② あたしの連装砲くんの方が、可愛いに決まってるでしょ? 島風の12.7cm連装砲がD型なのに対し、天津風のそれは一世代前のC型。連装砲くんの顔がレトロフューチャーチックなのはおそらくそのせい。
島風のプロトタイプらしく、対抗意識を燃やしているのか?
装備時③ いい風…
(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)
ドック入り はぁ~、疲れた。帰っていい?
ドック入り(重傷) お風呂よお風呂。汗臭いのはいや。
建造時 新しい子が来たみたいね。いいけど。
艦隊帰投時 艦隊帰投ね、お疲れ様
出撃時 第十六駆逐隊、天津風。抜錨よ!
二水戦所属は伊達じゃないわ。雪風、ついてらっしゃいな! 天津風は当時世界最強の水雷戦隊とうたわれた「華の二水戦」所属だった。第十六駆逐隊のメンバーは彼女と雪風・初風・時津風(未実装)。
戦闘開始時 いい風ね…。撃ち方、始めて!
航空戦開始時 -
攻撃時 逃がさないわ!
いい風ね…。撃ち方、始めて!
夜戦開始時 大丈夫…いい風が吹いているもの!
MVP時 あたし…天津風が功労艦なの?あら、いいじゃない!時津風、どーお?
被弾小破① や、やったわね…!
被弾小破② -
被弾カットイン ああっ、艦首と第一砲塔が! でも、まだこんなんじゃ沈まないんだから! 1944年、船団の護衛任務中に米潜水艦「レッドフィン」の雷撃を受け、艦橋や前部主砲を含む第一煙突より前の部分が断裂してしまった。
撃沈時(反転) 今度は海に沈むのね…冷たくて……暗いわ… 最期の爆撃をうけた後、人力操舵で近くのアモイ湾まで航行したが、機関の潤滑油に海水が入り込んでしまい機関再始動に失敗。そのまま潮に流され浅瀬に座礁する。その後、自沈処分された。
ケッコンカッコカリ(反転) あの…なに、それ? へ?! 私に? …えっと、もらってあげてもいいけど…あなた、ホントに私でいいの? お、お礼を言うわね。
ケッコン後母港(反転) あなた…時々は休むのよ? それも大切なんだから…もうっ! 聞いてる?! …もぅ


時間 台詞 関連する史実や元ネタ、解説など
00:00 深夜0時。日付が変わったわ
01:00 マルヒトマルマル。ふわぁ…あたし少し眠いわ。あなたはまだ休まないの?
02:00 マルフタマルマル。初風はもう寝たかしら?雪風は寝てるわね、うん
03:00 マルサンマルマル。あなた…今日まさか徹夜するつもり?付き合わないわよ
04:00 マルヨンマルマル。付き合わないって言ったのに…強情ね…もう朝だし
05:00 マルゴーマルマル。見なさい。もう朝よ。もう!あぁ…もう…!
06:00 マルロクマルマル。でも、朝の風って気持ちいい…。ね、あなたもそう思う?
07:00 マルナナマルマル。…風が気持ちいいわね。ねぇ、少し沖に出てみる?
08:00 マルハチマルマル。…はい、朝食は用意しておいたわ。和朝食でいいわよね?
09:00 マルキューマルマル。そろそろ艦隊を本格的に動かす時間よね。どうするの?
10:00 ヒトマルマルマル。島風!? …うん、そうね。と、友達だけど。…何?その顔?
11:00 ヒトヒトマルマル。なに?連装砲くん?可愛いでしょ、艦首にちょこんと 島風への対抗意識?
12:00 ヒトフタマルマル。お昼はカレーでいいかしら?わりと得意なのよ?ほんとよ?
13:00 ヒトサンマルマル。あたしのカレーどうだった?うぅん?よろしい! 可愛い
14:00 ヒトヨンマルマル。島風とどっちが速いかって?そう言われても競争したことないからわからないわ 残念ながら天津風の速力そのものは他の陽炎型と大差はない。
15:00 ヒトゴーマルマル。あたしはプロトタイプなんだから。いろいろとあたしで試験したの。速さが問題じゃないのよ むしろ、燃費の向上と航続距離の延長が大きい。
16:00 ヒトロクマルマル。おかしいなぁ、連装砲くんの機嫌が悪い…なんで?
17:00 ヒトナナマルマル。夕方の風もいいわね。…ここで、一緒に夕陽見る?
18:00 ヒトハチマルマル。そろそろ夕食の時間ね。魚焼く感じでいい?
19:00 ヒトキューマルマル。…はい、お夕食です。…どう、おいしい?…そう、よかった!
20:00 フタマルマルマル。あら、島風元気?えっ、なに?競走!?しないわよ夜だし!
21:00 フタヒトマルマル。…だから競走なんかしないって!島風しつこーい!
22:00 フタフタマルマル。や、やっと帰ったわね。もう…なんなんだか!
23:00 フタサンマルマル。そろそろ今日も終わりね。一日ご苦労様、また明日ね
放置時 えっ?あたし、退屈なんかしてないわ。新型缶のデータを取ったり、色々と大変なんだから。ほ、ほんとよ!


同型艦

陽炎不知火黒潮 ― 親潮 ― 早潮 ― 夏潮 ― 初風雪風天津風 ― 時津風 ― 浦風 ― 磯風 ― 浜風谷風 ― 野分 ― 嵐 ― 萩風 ― 舞風秋雲

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最終更新:2014年07月22日 23:28
添付ファイル

*1 その2日後、浮上中のところを「潮」の砲撃により撃沈。

*2 米側では2月中に同艦が「山風」もしくは「雷」による攻撃で沈没したと記されている

*3 「秋雲」を撃沈した艦

*4 香港発門司行きの3番目の船団という意味

*5 機関手入れ用の油分を含んだ布