比叡

「比叡」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

比叡」(2014/12/09 (火) 12:40:09) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

#image(No022.jpg) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV 東山奈央 ---- *Illustrator コニシ ---- *史実情報 ---- #image(Hiei_1915.jpg) 新造直後の比叡 比叡は金剛型二番艦として、横須賀海軍工廠にて建造された。建造の際は[[金剛]]の設計図を元にしており、日本で最初に建造された次世代弩級戦艦である。 進水式では大正天皇が臨席して本艦の命名を行っていることからも、期待のほどが伺えよう。 しかし、実際は就役を急がせるため部品のほとんどをヴィッカース社から輸入しており、国産と言うよりも半ノックダウン生産艦であった。 これを反映してか、艦娘デザインは金剛より若干薄い茶髪となっている。 竣工後は姉妹で第3戦隊を編成。第一次大戦の勃発を受け、東シナ海へと出撃している。 大戦後、金剛型は第一次大戦の戦訓を取り入れる改装工事を行うが、そこに軍縮条約の開催がぶつかる。 比叡は1929年から改装工事を始めるはずだったが、ロンドン海軍軍縮条約の成立により、練習戦艦への格下げ・改装が決まってしまう。 これは各国の戦艦保有比率を調整する為のもので、比叡が選ばれたのは改装が一番最後で都合がよかったからである。 こうして比叡は第4砲塔と装甲、缶の半分を撤去して1933年に工事を終了。練習戦艦へとなった。 缶が半減したことで1番煙突は細く、第4砲塔跡には海苔缶の蓋のような覆いが張り付き、装甲板を剥がされた舷側は凹んでしまった。 改装により排水量が減少した艦体は、浮き上がって異様に腰高なシルエットとなった。 比叡を最愛の艦とした吉田俊雄中佐はこの時の姿を「まるでお年寄り」と評し、後に最後の艦長となった西田正雄は涙を流して悲しんだ。 しかし、この改装により比叡は昭和天皇の御召艦として活躍する栄誉を多く賜ることとなる。 砲塔が減って艦内に余裕があった事と、艦隊所属ではないためスケジュールを組みやすかったことが幸いしたという。 御召艦比叡は切手にもなるなど、国民にも広く親しまれることとなった。二・二六事件においても、更なる情勢悪化の折には昭和天皇が当艦に避難して鎮圧指揮を執る予定だったという。 この時期艦長を務めた井上成美も、生涯で最も愉快な時期だったと振り返っている。 #image(Hiei_1933.jpg) 練習戦艦時代の比叡 1936年、比叡は軍縮条約の破棄を受けて、戦艦への復旧工事を受けることになった。 工事では第4砲塔の復活や機関の更新、装甲の追加と強化など、姉妹が2度に分けた工事を一挙に実施している。 また、大和型のテストケースとされたため、大和型に似た非常に近代的な艦橋を備えることになった。この為、比叡の艦影は姉妹の中でも一際目立つものになった。 この他艦内装備でも、主砲塔旋回用ターボポンプ、応急注排水装置、急速注排水装置、火薬庫冷却装置など、大和型に搭載予定の新鋭装備を導入・テスト運用している。 他の姉妹から得られたデータ、新式装備を惜しみなく注ぎ込まれた比叡は、攻守ともに金剛型で最高の性能を持つに至った。 #image(hiei2.jpg) 真珠湾攻撃に向け準備中。大和型を連想させる近代的な艦橋構造がよく解る。 開戦後は末妹[[霧島]]と組み、機動部隊の護衛として戦った。 真珠湾以降、機動部隊と共に南方へと転戦。1942年初頭のインド洋作戦では、[[金剛]]・[[榛名]]と合流。姉妹4隻が揃っての任務となった。 ただし、戦場で4隻が共に行動したのは、この時が最初で最後である。 続くミッドウェーでは[[金剛]]と共に後方部隊へ編入。比叡が霧島以外の姉妹と組んだのも、最初で最後のことであった。この後、比叡はアリューシャン作戦に参加。 7月からは再び[[霧島]]と共に、再編成された新機動部隊の護衛に復帰。空母部隊の前衛として行動した。 ガダルカナルでの戦いが激化する11月、比叡は[[霧島]]と共にソロモン方面へ進出。[[金剛]]と[[榛名]]に続き、ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を要請された。 比叡は[[霧島]]以下、軽巡洋艦[[長良]]、駆逐艦[[雪風]]、[[暁]]、[[雷]]、[[電]]、[[時雨]]など駆逐艦13隻を率いて出撃した。 11月12日、一時スコールのため予定表から40分ほど遅れてのガダルカナル島砲撃予定地到着となったが、この遅れが比叡の不運となった。 40分早ければ飛行場を砲撃した上で、余裕を持って敵艦隊と当たれた可能性があったのだ。 砲撃開始3分前、[[夕立]]から「敵見ゆ」と緊急電が入った。米海軍は、同海域に巡洋艦を中心とする艦隊を派遣していた。 敵将キャラハン少将はすでにレーダーで日本艦隊を捕捉しており、T字陣形で迎え撃とうとしていた。 だが、[[夕立]]は間髪いれずそのまま敵艦隊へ突進。慌てた米艦隊は各艦が緊急転舵を行った為、陣形が崩壊し大混乱へと陥った。 [[夕立]]からの緊急電を受信した直後、比叡も敵艦隊を発見。 比叡は陸上砲撃用に三式弾を装填していたが、兵装転換をしている場合ではないと、探照灯を点灯し即座に砲撃を開始。彼我の距離は僅か5~6Kmという「至近近距離」だった。 比叡の第一射は巡洋艦アトランタを直撃。艦橋への三式弾直撃に加え、味方の誤射も加わり、副司令官スコット少将以下艦隊首脳部大半が死傷。 続いて[[霧島]]の主砲三式弾と比叡の副砲弾、[[夕立]]ら駆逐艦の砲撃が一斉に敵旗艦サンフランシスコを襲い、同艦も艦橋その他の上部構造物が大破して炎上。 この攻撃でキャラハン提督以下幹部のほぼ全員が戦死。指揮官を2人とも喪った米艦隊は完全に統制不能になり、収拾の付かない大混乱へと陥った。 一方、探照灯を使った比叡は恰好の的となり、機銃弾すら含む多数の命中弾を艦橋に浴びて艦橋要員が多数死傷。電気系統も損傷して艦内通話も不通となり、戦闘力が低下した。 さらに艦尾付近の無装甲部分を敵砲弾に貫通され、浸水により舵機の電動機がショートして舵が効かなくなってしまう。 (後日[[霧島]]も同様に操舵不能に陥ったのを見るに、舵周りは金剛型の共通の弱点といえる) 比叡は松明のように燃えながら戦場の真ん中を大きく回り続けた。 海戦は日本側優勢で帰結。操舵不能となった比叡は、海域から離脱すべく応急修理を続けた。 乗員は溺死しかけながらも懸命に舵を復旧しようとしたが、浸水が甚だしく状況は好転しない。止む無く、破孔に毛布を詰めて穴を塞ぐことに。 午前4時20分、司令部は比叡から駆逐艦[[雪風]]に移乗。[[霧島]]に比叡を曳航させようとしたが、[[霧島]]が米潜水艦の攻撃を受けたため中止になった。 日の出を迎えると、米機の空襲が始まった。機関が無事だったため、比叡は全速29ノットで回避行動をとるが、 その度に復旧作業は中断させられ、折角詰めた毛布や応急舵も流出してしまい、作業は遅々として進まなかった。 昼頃には魚雷が命中して艦が傾斜するも航行に支障はなく、作業が続けられていた。 しかし、午後1時頃、艦長の下に「機関室全滅」の報が届いたことで、艦長も断腸の思いで復旧を断念。総員退艦を決意する。 比叡は自沈の為、キングストン弁を開放。艦長は共に沈むつもりで部下の説得も頑なに拒否し続けたが、部下に無理やり連れだされた。 生き残った乗組員は[[雪風]]以下の駆逐艦に移乗。この段階で機関室全滅が誤報であったと解ったが、後の祭りだった。 誤報であったことを聞いた直後、「魚雷発射用意」との声に艦長は「待てッ!」と絶叫しながら部屋を飛び出したが、もはや間に合わなかった。 午後4時、[[雪風]]より発射された魚雷が、比叡に命中。比叡は沈まなかったが、[[雪風]]は現場を後にした。午後11時、雪風が戻ってみると、比叡の姿はなかった。 こうして、比叡は日本戦艦初の喪失艦となってしまった。国内では艦名は伏せられたが、戦艦が1隻沈んだことが報じられている。 この後、艦長は時の海軍大臣・嶋田繁太郎によって、問答無用に予備役編入の処罰を受けた。山本長官はこの裁定に激怒したが、覆らなかった。 艦長は閑職を転々とし、戦後も死の直前に1度だけ取材に応じた以外は、比叡のことを語ることはなかったという。 元海軍軍人で、戦後作家となった吉田俊雄は、著書で比叡の最期を「大変後味の悪いものだった」と述べている。 比叡の生涯や沈没の顛末に関しては、吉田俊雄の「戦艦「比叡」―高速戦艦悲劇の生涯」、相良俊輔「怒りの海」なども参考に。 余談ながら、比叡という艦名は次女に縁があるようで、初代のコルベット艦比叡、二代目の戦艦比叡、三代目のヘリ搭載護衛艦ひえいと、全て『二番艦』であった。 また、他の金剛型姉妹が自然信仰や修験道に関連する山から名前を取られているのに対し、比叡のみが仏教(延暦寺)に関連する山から名前が取られた。 金剛型で比叡のみスカートがチェック柄なのはそのためという説がある。 ---- 台詞一覧 ---- |状況 |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|金剛お姉さまの妹分、比叡です。経験を積んで、姉さまに少しでも近づきたいです。|練習戦艦時代を経て近代化改修を受けたため?| |秘書クリック会話①|いつでも準備!出来てます!|| |秘書クリック会話②|あ、はぁい、お呼びになりましたでしょうか|| |秘書クリック会話③|ぅぅん、ハッ、何ですか?寝てません、寝てませんってば|条約時代、練習戦艦に格下げされたため?| |戦績表示時|司令にお知らせみたいです|| |編成選択時|気合!入れて!行きます!|| |装備時①|はい!力が湧いてくるようです!|| |装備時②|少しはお姉さまに近づけたかな?|| |装備時③|さっすがですね~!|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |補給時|よし!これで!行けます!|| |ドック入り|こんなの、かすり傷程度なんだけどな|| |ドック入り(重傷)|お姉さまの夢を見て、おやすみします!|| |建造時|新しい妹…もしくはお姉さまが、いらっしゃるみたいですよ|艦これ実装艦艇の中で金剛型は最古参のため、金剛型2番艦の比叡にとって建造で出来るのは妹分の艦が殆ど。&br()唯一の例外がお姉さまこと金剛型1番艦・金剛である。| |艦隊帰投時|作戦が完了!艦隊が帰投しました|| |出撃時|司令には、恋も、戦いも!負けません!|| |戦闘開始時|打ちます!当たって|| |攻撃時|主砲!斉射!当たってぇ!or主砲!斉射!撃ちます!or主砲!斉射!始め!|| |夜戦開始時|お姉様を邪魔する人は許さない!|| |夜戦攻撃時|私、頑張るから、見捨てないでぇぇ!|戦闘による被弾で舵を故障し、機関が健在ながら同じ地点をぐるぐる旋回することとなって、味方艦隊が退避した後に取り残され敵機の空爆を何度も受け浸水も増え、最終的に沈没した&br()…のだが、史実情報にもある通り自沈判断の決め手となった機関部全滅は誤報で、図らずもまだ頑張れた比叡を見捨ててしまう形になってしまった。| |MVP時|私の活躍見ていてくれました?そう!なら、頑張ったかいがありました!|| |被弾小破①|きゃあ!|| |被弾小破②|ひえ~~~|&bold(){ダジャレ}| |被弾カットイン|お姉さま譲りの装備をこんなに…ゆ、許さないんだからぁぁぁ!|金剛と戦隊を組ませるため早期の建造を目指したため、国内建造だが装備品の多くを金剛の建造元である英国・ヴィッカース社から輸入している| |撃沈時(反転)|COLOR(white):金剛お姉さまは…無事か、な…。だったら…いい…かな…|COLOR(white):比叡は1942年11月12日、第三次ソロモン海戦で沈没。&br()金剛は約二年後の1944年11月21日に潜水艦の雷撃により沈没している。| |時間|台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |放置時|気合!入れて!...いるんだけどなぁ...あれぇ?あれぇ~?|| ---- *同型艦 [[金剛]]([[金剛改二]]) ― &bold(){比叡}([[比叡改二]]) ― [[霧島]]([[霧島改二]]) ― [[榛名]]([[榛名改二]]) ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=比叡/コメント) ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告
#image(No022.jpg) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV 東山奈央 ---- *Illustrator コニシ ---- *史実情報 ---- #image(Hiei_1915.jpg) 新造直後の比叡 比叡は金剛型二番艦として、横須賀海軍工廠にて建造された。建造の際は[[金剛]]の設計図を元にしており、日本で最初に建造された次世代弩級戦艦である。 進水式では大正天皇が臨席して本艦の命名を行っていることからも、期待のほどが伺えよう。 しかし、実際は就役を急がせるため部品のほとんどをヴィッカース社から輸入しており、国産と言うよりも半ノックダウン生産艦であった。 これを反映してか、艦娘デザインは金剛より若干薄い茶髪となっている。 竣工後は姉妹で第3戦隊を編成。第一次大戦の勃発を受け、東シナ海へと出撃している。 大戦後、金剛型は第一次大戦の戦訓を取り入れる改装工事を行うが、そこに軍縮条約の開催がぶつかる。 比叡は1929年から改装工事を始めるはずだったが、ロンドン海軍軍縮条約の成立により、練習戦艦への格下げ・改装が決まってしまう。 これは各国の戦艦保有比率を調整する為のもので、比叡が選ばれたのは改装が一番最後で都合がよかったからである。 こうして比叡は第4砲塔と装甲、缶の半分を撤去して1933年に工事を終了。練習戦艦へとなった。 缶が半減したことで1番煙突は細く、第4砲塔跡には海苔缶の蓋のような覆いが張り付き、装甲板を剥がされた舷側は凹んでしまった。 改装により排水量が減少した艦体は、浮き上がって異様に腰高なシルエットとなった。 比叡を最愛の艦とした吉田俊雄中佐はこの時の姿を「まるでお年寄り」と評し、後に最後の艦長となった西田正雄は涙を流して悲しんだ。 しかし、この改装により比叡は昭和天皇の御召艦として活躍する栄誉を多く賜ることとなる。 砲塔が減って艦内に余裕があった事と、艦隊所属ではないためスケジュールを組みやすかったことが幸いしたという。 御召艦比叡は切手にもなるなど、国民にも広く親しまれることとなった。二・二六事件においても、更なる情勢悪化の折には昭和天皇が当艦に避難して鎮圧指揮を執る予定だったという。 この時期艦長を務めた井上成美も、生涯で最も愉快な時期だったと振り返っている。 #image(Hiei_1933.jpg) 練習戦艦時代の比叡 1936年、比叡は軍縮条約の破棄を受けて、戦艦への復旧工事を受けることになった。 工事では第4砲塔の復活や機関の更新、装甲の追加と強化など、姉妹が2度に分けた工事を一挙に実施している。 また、大和型のテストケースとされたため、大和型に似た非常に近代的な艦橋を備えることになった。この為、比叡の艦影は姉妹の中でも一際目立つものになった。 この他艦内装備でも、主砲塔旋回用ターボポンプ、応急注排水装置、急速注排水装置、火薬庫冷却装置など、大和型に搭載予定の新鋭装備を導入・テスト運用している。 他の姉妹から得られたデータ、新式装備を惜しみなく注ぎ込まれた比叡は、攻守ともに金剛型で最高の性能を持つに至った。 #image(hiei2.jpg) 真珠湾攻撃に向け準備中。大和型を連想させる近代的な艦橋構造がよく解る。 開戦後は末妹[[霧島]]と組み、機動部隊の護衛として戦った。 真珠湾以降、機動部隊と共に南方へと転戦。1942年初頭のインド洋作戦では、[[金剛]]・[[榛名]]と合流。姉妹4隻が揃っての任務となった。 ただし、戦場で4隻が共に行動したのは、この時が最初で最後である。 続くミッドウェーでは[[金剛]]と共に後方部隊へ編入。比叡が霧島以外の姉妹と組んだのも、最初で最後のことであった。この後、比叡はアリューシャン作戦に参加。 7月からは再び[[霧島]]と共に、再編成された新機動部隊の護衛に復帰。空母部隊の前衛として行動した。 ガダルカナルでの戦いが激化する11月、比叡は[[霧島]]と共にソロモン方面へ進出。[[金剛]]と[[榛名]]に続き、ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を要請された。 比叡は[[霧島]]以下、軽巡洋艦[[長良]]、駆逐艦[[雪風]]、[[暁]]、[[雷]]、[[電]]、[[時雨]]など駆逐艦13隻を率いて出撃した。 11月12日、一時スコールのため予定表から40分ほど遅れてのガダルカナル島砲撃予定地到着となったが、この遅れが比叡の不運となった。 40分早ければ飛行場を砲撃した上で、余裕を持って敵艦隊と当たれた可能性があったのだ。 砲撃開始3分前、[[夕立]]から「敵見ゆ」と緊急電が入った。米海軍は、同海域に巡洋艦を中心とする艦隊を派遣していた。 敵将キャラハン少将はすでにレーダーで日本艦隊を捕捉しており、T字陣形で迎え撃とうとしていた。 だが、[[夕立]]は間髪いれずそのまま敵艦隊へ突進。慌てた米艦隊は各艦が緊急転舵を行った為、陣形が崩壊し大混乱へと陥った。 [[夕立]]からの緊急電を受信した直後、比叡も敵艦隊を発見。 比叡は陸上砲撃用に三式弾を装填していたが、兵装転換をしている場合ではないと、探照灯を点灯し即座に砲撃を開始。彼我の距離は僅か5~6Kmという「至近近距離」だった。 比叡の第一射は巡洋艦アトランタを直撃。艦橋への三式弾直撃に加え、味方の誤射も加わり、副司令官スコット少将以下艦隊首脳部大半が死傷。 続いて[[霧島]]の主砲三式弾と比叡の副砲弾、[[夕立]]ら駆逐艦の砲撃が一斉に敵旗艦サンフランシスコを襲い、同艦も艦橋その他の上部構造物が大破して炎上。 この攻撃でキャラハン提督以下幹部のほぼ全員が戦死。指揮官を2人とも喪った米艦隊は完全に統制不能になり、収拾の付かない大混乱へと陥った。 一方、探照灯を使った比叡は恰好の的となり、機銃弾すら含む多数の命中弾を艦橋に浴びて艦橋要員が多数死傷。電気系統も損傷して艦内通話も不通となり、戦闘力が低下した。 さらに艦尾付近の無装甲部分を敵砲弾に貫通され、浸水により舵機の電動機がショートして舵が効かなくなってしまう。 (後日[[霧島]]も同様に操舵不能に陥ったのを見るに、舵周りは金剛型の共通の弱点といえる) 比叡は松明のように燃えながら戦場の真ん中を大きく回り続けた。 海戦は日本側優勢で帰結。操舵不能となった比叡は、海域から離脱すべく応急修理を続けた。 乗員は溺死しかけながらも懸命に舵を復旧しようとしたが、浸水が甚だしく状況は好転しない。止む無く、破孔に毛布を詰めて穴を塞ぐことに。 午前4時20分、司令部は比叡から駆逐艦[[雪風]]に移乗。[[霧島]]に比叡を曳航させようとしたが、[[霧島]]が米潜水艦の攻撃を受けたため中止になった。 日の出を迎えると、米機の空襲が始まった。機関が無事だったため、比叡は全速29ノットで回避行動をとるが、 その度に復旧作業は中断させられ、折角詰めた毛布や応急舵も流出してしまい、作業は遅々として進まなかった。 昼頃には魚雷が命中して艦が傾斜するも航行に支障はなく、作業が続けられていた。 しかし、午後1時頃、艦長の下に「機関室全滅」の報が届いたことで、艦長も断腸の思いで復旧を断念。総員退艦を決意する。 比叡は自沈の為、キングストン弁を開放。艦長は共に沈むつもりで部下の説得も頑なに拒否し続けたが、部下に無理やり連れだされた。 生き残った乗組員は[[雪風]]以下の駆逐艦に移乗。この段階で機関室全滅が誤報であったと解ったが、後の祭りだった。 誤報であったことを聞いた直後、「魚雷発射用意」との声に艦長は「待てッ!」と絶叫しながら部屋を飛び出したが、もはや間に合わなかった。 午後4時、[[雪風]]より発射された魚雷が、比叡に命中。比叡は沈まなかったが、[[雪風]]は現場を後にした。午後11時、雪風が戻ってみると、比叡の姿はなかった。 こうして、比叡は日本戦艦初の喪失艦となってしまった。国内では艦名は伏せられたが、戦艦が1隻沈んだことが報じられている。 この後、艦長は時の海軍大臣・嶋田繁太郎によって、問答無用に予備役編入の処罰を受けた。山本長官はこの裁定に激怒したが、覆らなかった。 艦長は閑職を転々とし、戦後も死の直前に1度だけ取材に応じた以外は、比叡のことを語ることはなかったという。 元海軍軍人で、戦後作家となった吉田俊雄は、著書で比叡の最期を「大変後味の悪いものだった」と述べている。 比叡の生涯や沈没の顛末に関しては、吉田俊雄の「戦艦「比叡」―高速戦艦悲劇の生涯」、相良俊輔「怒りの海」なども参考に。 余談ながら、比叡という艦名は次女に縁があるようで、初代のコルベット艦比叡、二代目の戦艦比叡、三代目のヘリ搭載護衛艦ひえいと、全て『二番艦』であった。 また、他の金剛型姉妹が自然信仰や修験道に関連する山から名前を取られているのに対し、比叡のみが仏教(延暦寺)に関連する山から名前が取られた。 金剛型で比叡のみスカートがチェック柄なのはそのためという説がある。 ---- *台詞一覧 ---- |状況 |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|金剛お姉さまの妹分、比叡です。経験を積んで、姉さまに少しでも近づきたいです。|練習戦艦時代を経て近代化改修を受けたため?| |秘書クリック会話①|いつでも準備!出来てます!|| |秘書クリック会話②|あ、はぁい、お呼びになりましたでしょうか|| |秘書クリック会話③|ぅぅん、ハッ、何ですか?寝てません、寝てませんってば|条約時代、練習戦艦に格下げされたため?| |戦績表示時|司令にお知らせみたいです|| |編成選択時|気合!入れて!行きます!|| |装備時①|はい!力が湧いてくるようです!|| |装備時②|少しはお姉さまに近づけたかな?|| |装備時③|さっすがですね~!|| |>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)| |補給時|よし!これで!行けます!|| |ドック入り|こんなの、かすり傷程度なんだけどな|| |ドック入り(重傷)|お姉さまの夢を見て、おやすみします!|| |建造時|新しい妹…もしくはお姉さまが、いらっしゃるみたいですよ|艦これ実装艦艇の中で金剛型は最古参のため、金剛型2番艦の比叡にとって建造で出来るのは妹分の艦が殆ど。&br()唯一の例外がお姉さまこと金剛型1番艦・金剛である。| |艦隊帰投時|作戦が完了!艦隊が帰投しました|| |出撃時|司令には、恋も、戦いも!負けません!|| |戦闘開始時|打ちます!当たって|| |攻撃時|主砲!斉射!当たってぇ!or主砲!斉射!撃ちます!or主砲!斉射!始め!|| |夜戦開始時|お姉様を邪魔する人は許さない!|| |夜戦攻撃時|私、頑張るから、見捨てないでぇぇ!|戦闘による被弾で舵を故障し、機関が健在ながら同じ地点をぐるぐる旋回することとなって、味方艦隊が退避した後に取り残され敵機の空爆を何度も受け浸水も増え、最終的に沈没した&br()…のだが、史実情報にもある通り自沈判断の決め手となった機関部全滅は誤報で、図らずもまだ頑張れた比叡を見捨ててしまう形になってしまった。| |MVP時|私の活躍見ていてくれました?そう!なら、頑張ったかいがありました!|| |被弾小破①|きゃあ!|| |被弾小破②|ひえ~~~|&bold(){ダジャレ}| |被弾カットイン|お姉さま譲りの装備をこんなに…ゆ、許さないんだからぁぁぁ!|金剛と戦隊を組ませるため早期の建造を目指したため、国内建造だが装備品の多くを金剛の建造元である英国・ヴィッカース社から輸入している| |撃沈時(反転)|COLOR(white):金剛お姉さまは…無事か、な…。だったら…いい…かな…|COLOR(white):比叡は1942年11月12日、第三次ソロモン海戦で沈没。&br()金剛は約二年後の1944年11月21日に潜水艦の雷撃により沈没している。| |時間|台詞|関連する史実や元ネタ、解説など| |放置時|気合!入れて!...いるんだけどなぁ...あれぇ?あれぇ~?|| ---- *同型艦 [[金剛]]([[金剛改二]]) ― &bold(){比叡}([[比叡改二]]) ― [[霧島]]([[霧島改二]]) ― [[榛名]]([[榛名改二]]) ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=比叡/コメント) ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: